12 神の帰還
さあ、とロズウィンドは促した。
「どうか私に、これ以上村を傷つけさせないでくれ」
自分勝手な物言いに反論するよりも、リチェリンは集中しようとした。
声が聞こえる気がする。
そのとき、足に何かが触れて、彼女は一瞬びくりとした。だがそれは怖れるべきものではなく、守り人が弱々しく差し伸べた手が当たったものだった。
「ソシュラン、さん」
「神子様……リチェリン、さま」
その声はかすれていたが、瀕死というような事態からは脱却したと見えた。
「どうか、村を――私も……」
ぐっとソシュランはもう片方の手を握り締めた。
「力を」
瀕死の状態から抜けたとは言っても、大きな傷を負っていることには変わりない。神女見習いは彼を休ませるべきだと考えたが、生憎なことに現状ではそうもいかなかった。また彼女の内には、異なる思いも同時に存在したと言える。
(クロスの血というのはよく判らないけれど、ソシュランさんがエク=ヴーに選ばれた者であることは間違いないわ)
リチェリンはすっとかがみ込むと彼の手を取った。
「力を貸して下さい」
彼女は言った。
「私の……この、臆する心を乗り越える、力を」
守り人はその言葉の意味をどこまで感じ取ったか、彼女の手を現状で可能な限り強く握った。リチェリンもそれを握り返す。ラシアッドの王子は興味深げにそれを見ていた。
(声が、聞こえる)
かすかに、届くものがあった。耳に。それとも心に。
(――あなたは、誰? 私の、思う人で合っている?)
(あなたが、エク=ヴーなの?)
誰かがそっと笑みを浮かべる。怖がらないでと、声が。
『……れないと』
聞こえる。
『あなたが呼んでくれないと、そこに行けない』
『どうか、怖れずに』
「……ええ」
彼女は答えた。ゆっくりと目を開ける。
「信じるわ。私」
ソシュランの手を放し、彼女は立ち上がるとロズウィンドを見た。
いや、そうではない。
その向こうにある、エクール湖を。
湖の中心に浮かぶ、湖神の祠を。
「湖神よ。エク=ヴーよ。目覚めのときは、きたれり」
自然と言葉が唇に上った。ロズウィンドの瞳がきらめいた。
「いまこそ、戻り給え。眠り深き幼少の時期を終え、エクールの民のために、いま」
神子は祠に向かって手を差し伸べた。
にっこりと、誰かが微笑んだ。
「この力は」
ロズウィンドもまた湖を振り返った。
「ふふ、感じる。感じるぞ。エク=ヴーが」
きゅっと彼は拳を握った。
「エクール湖に、戻った」
その声には喜びがにじんだ。
「さあ、エク=ヴーよ――その姿を我が前に見せよ!」
白い光が辺りを包んだ。
目を開けていられず、彼らはまぶたを閉ざす。それでもクロシアは何とかロズウィンドを守らんと前に出、ソシュランもまた力を振り絞って立ち上がろうとしていた。
「引け、クロシア」
顔の前に手をかざしながらロズウィンドは、かすかに興奮した声で言った。
「何も怖れるべきものではない」
「ソシュランさん、無理はしないで」
気づいてリチェリンは言った。守り人は首を振った。
「大丈夫、です。いまの光で、力が……戻ってきた、ようです……」
次第に光が薄れていき、辺りが見えるようになってきたとき、ソシュランは立ち上がっていた。リチェリンは安堵と同時に危惧も覚える。快復したことで彼はまた戦おうとするのではないかと。
「いいえ、心配はご無用です。私などよりもっと強大なる存在が、あなたを……村を守りますから」
湖神――エク=ヴー。
リチェリンは湖を見た。ソシュランも。ロズウィンドも。クロシアでさえ。
「ああ」
感極まったような吐息を洩らしたのは、誰だったのか。
「湖神は、この湖に、いなくては」
それは、まだ、見えなかった。
だが、感じられた。それを感じ取るのに、特別な能力も感性も要らなかった。どんなに鈍い者であっても、まるで空気のなかに雷神の子がいるようなぴりぴりした感触に気づかずにはいられなかっただろう。
(まだ……力が弱いの?)
(本当なら、まだ、時間が必要だったから……)
いまならば判る。オルフィが長老から聞いた、湖神の「現し身」の交代のこと。
三十年前に悪魔の炎を分散させたことで力を失ったエク=ヴーは次代の身体を用意したが、本来の定め通りに湖で幼生期を送ることは叶わなかった。
分散されたとは言え、悪魔の力は穢れたもの。それを浄化しきれない内は、悪い影響が出かねなかったからだ。
だから、卵体の時期を終えたあと、幼生のエク=ヴーは湖を離れた。
リチェリンも一緒だった。
そうなのだ。
一緒だった――それから、彼も。
(どこにいるの)
(戻ってきて。いまここに)
(お願い。私の隣に)
(隣にいて……)
「オルフィ!」
同時に、叫んだものがあった。
叫び、或いは咆吼。
エク=ヴーと、湖神と呼ばれる生き物の。
まるでリチェリンの感情に呼応したように。それとも、そうなのだろうか。
「ぐ……」
その轟音の衝撃は重く腹に響き、鍛えているソシュランやクロシアですら顔をしかめた。
「応えて、いる」
ロズウィンドも同じものを感じているはずだが、彼の目は輝いていた。
「湖神が神子の声に応えている。そうだ、私はこれを待っていた」
「殿下、危険です。どうかお下がりを」
「危険? 何も危険なことなどない」
くっと彼は口の端を上げた。
続いて二度目の咆吼が聞こえた。いや、そうではなかった。
「雷 か」
ロズウィンドは空を見上げた。
「ふふ、神の帰還に相応しい」
彼がそう呟くと同時に、ばらばらと大粒の雨が降りはじめた。




