07 偽りの正義であろうとも
「まさかと、思いたかったが」
ジョリスはうなるような声を発した。
「ではお前は、もはや人ではないのか……人であることをやめたのか」
「何だって? はは、勘違いだ。俺は人間さ。ただ悪魔と契約を交わしたと、それだけの」
「――そのように黒い血が流れていても、人間だと? 判っていないのか。信じ込まされているのか。既に……お前が木偶同然だということを」
その声には哀れむような音色が混じった。ハサレックは不機嫌そうに顔をしかめる。
「知ったふりはよすんだな、騎士殿。獄界の契約についてお前が何を知る?」
「お前は何を知るんだ?」
そのまま、ジョリスは返した。
「文献もろくにない。深い知識を得ていたとは思えない。お前の知る獄界の契約というのはみな、悪魔から聞いたことではないのか」
「そう言われたら、その通りとしか言えないな」
気にしないようにハサレックは肩をすくめた。
「お前の言うのはこうか、ジョリス。俺は悪魔に利用されている。既に人間ではなくなっているのに、それを知らない」
「そう、思える」
「そうか。だが」
正直にジョリスは答え、ハサレックは鼻で笑った。
「だったら、どうなんだ?」
「何だと」
「別にそれでもかまわないさ。この身にある加護でも呪いでも。この黒い血が人ではない証なら、俺はもう人じゃないということ。もしかしたら、とっくに。だが、それが何だ?」
「ハサレック……」
「俺はもう、心を捨てたんだ。別に俺はかまわない。この身体が突然、化け物のようになったとしてもな」
かまわないと彼は繰り返した。それが本心なのか自虐の混じった冗談なのか、ジョリスには判らなかった。
「ああ、人でなくて結構だ。人にあるまじきことをしてきたんだ。――だが、それなら」
きゅっとハサレックは両目を細めた。
「あのガキどもにだって、非道に冷酷に……振る舞えそうなもんだってのに」
その声はわずかに、かすれた。
「は、はは。そうか。俺はいつの間にか、人間じゃなくなってた、か」
かまわない。そう口にしたのは強がりでもなかった。ただ、少しだけ、ハサレックは思った。
彼らは何と言うだろう。こうして繰り返しナイリアンを襲い、〈白光の騎士〉に剣を向け、多数の子供たちを殺し、黒い血を流すハサレック・ディアを。それでも彼らはハサレック様と呼ぶのだろうか。
「おかしな、もんだ。心なんて要らないと捨ててきたのに、ここにきて俺に引っかかりを覚えさせるのはやっぱり感情なのか」
ふっと彼は笑った。
「なかった。お前やナイリアンを裏切れば、俺には『大事なもの』なんて何にも残らないはずだったんだ。ああ……それじゃ、あいつはそれが面白くなかったんだな。だからあいつらを」
「あいつら? 誰のことだ。子供だと?」
「なあ、ジョリス」
黒い血はまるで意思を持っているかのように動き、傷口を隠そうとするかのようだった。
「お前は、何を守ろうとしている?」
問いかけに答えぬまま、ハサレックの方もまた問うた。
「ナイリアンの民、全て。もしも状況が許せば、国境を越えて全ての弱き者を。そんなところか?」
「そのようにできるものなら」
ジョリスは答えた。できるかどうかはハサレックの言うように状況次第でも、彼の能力次第でもあった。
「お前も、そうだったであろう?」
「ああ、そうだった。国のため、民のため、正義のため。悪くなかったさ。ただ物足りなかった。物足りなかったんだと気づいた。人々を守る――何のために守る?」
ハサレックは手を振った。黒い血が飛び散った。
「子供殺しは悪魔との契約、〈ドミナエ会〉との戦いはロズウィンドの計画のひとつ、黒騎士となった俺が自分の意思で選んだのがお前との戦いだった」
だが、と彼は続けた。
「物足りなかった。戦いを知った誰もが言うように、俺だと気づいたためにお前には隙ができた、そこを突いたに過ぎない。おっと、隙を突くのも戦法のひとつだなんて言うなよ。そんなことは判ってるんだ」
先取ってハサレックは笑った。
「そうさ。相手に隙を作るのも立派な作戦だ。だがどこか納得がいかなかった。言っておくが騎士としてやってはならないとかそういう話じゃないぜ?……ただ、本当に全力のお前と戦れたのかって疑問だけはどうしても残った」
ジョリスは黙っていた。
「だから、お前が生きていたと知ったときは本当に嬉しかったさ。今度こそ、とな。なのに――判らなく、なってきた。俺が求めていたのはそれなのか。まるで力自慢の戦士みたいに、自分より強い相手と全力で戦いたい、そんなことだったのかと」
「違ったと――気づいたのか」
「全くの外れって訳でもない。その気持ちは確かにあった。だが……俺は」
『ハサレック様』
純粋に彼を見つめる二対の瞳。
そのことが、何だか引っかかって仕方ない。
「『守る』。そのことの本当の意味を」
彼はそこで言葉を切り、かつての親友に視線を合わせた。
「進んだ道はもう引き返せない。俺は……人でなくなろうと、正義でいなければならない。あいつらの、ために」
「ハサレック」
〈白光の騎士〉は何とも言えぬ表情を浮かべた。
「お前は、お前自身が守りたいものを見つけたのか」
「俺、自身が?」
その問いかけの意味が判らないと言うようにハサレックは目を細めた。
「そうだ。私は、私が戦うのは〈白光の騎士〉としてだ。『ジョリス・オードナー』としてでは、ない」
騎士は言った。
「たとえ私が死んでも、仲間たちが、次代の騎士が、遺志を担ってくれる。何も志半ばで倒れずとも、平穏に引退しても同じことだ」
彼は首を振った。
「私には、私自身で負うものは、ない。それでかまわないと、そうあるべきだと思ってきた。いや、いまでもだ。家族のことさえナイリアンの民のひとりと考えるというのは、強がりでも――意趣返しでもない」
少し肩をすくめた。
「私は本当に、そう思っている。そう思うようにした、というのもあるだろう。騎士たる者、個人的な行動に走ってはならないと自らを戒めた」
静かに〈白光の騎士〉は続けた。
「『私』がなくなったのは、私には自然なことだった。引き継ぐ者がいるからこそ、私は命も未来も賭けられる」
「俺はそれだけじゃ、物足りなかったんだ」
ハサレックはまた言った。
「いまは、そうだな、充実していると言うのかもしれない。俺を……ハサレック・ディアを純粋に信じ、慕ってくる奴らがいる。そいつらのためにも、俺は勝たなくちゃならないんだ」
彼は瞳をぎらつかせ、次の攻撃に向けて剣の柄を握りしめた。
「俺は……そうだ」
ハサレックはジョリスを見据えた。
「偽りの正義であろうとも、あいつらをこれ以上……落胆させないように」
いや、その視線はかつての友を通り越し、どこか違うところを見ていた。
「何だか……」
その声が、わずかにかすれる。そして、突然の目眩を覚えたかのように、足元をふらつかせた。
「温かい、ような――」
「ハサレック!」
「う……」
先ほどまで傷口を防ぐように彼の腹でうごめいていた黒い血が、だらだらと流れはじめていた。
『あーあ、もう気づいちゃったのか』
早いよ、と悪魔の声がした。
『警告、したよね。決意を揺らがせたらどうなるか』
「揺らがせ……などは」
腹を押さえながらハサレックはふらついた。
『いいや、だって君はジョリスを剣技で完全に破るか、或いは情に訴えて説得しラシアッドに連れる、そのどちらかを果たす約束をした』
「俺が、そんな……約束をしたと?」
ハサレックは胡乱そうに繰り返した。
『そうだよ。まあ、君の方では約束――契約だという自覚はなかったかもね。でも言葉のやり取りには気をつけなくちゃならないことくらい、君は判っていたと思うよ?』




