03 時間軸
「何度考えても、変な気持ちだ。ファローともう一度話せたなんて」
厳密に言うなら、あれは彼の知るファローと違う。だがそれでも、ファローなのだ。
「それに『ヴィレドーン』とも」
ふう、と彼は息を吐いた。
『どうしました?』
声が心配そうに問う。
『どこか痛いですか?』
「いやいや、痛みは術師に何とかしてもらったし」
『彼も言っていましたが、痛みがないのは幻のようなものですからね。負傷が治った訳ではなく』
「判ってる判ってる。痛みがなくて助かってるというだけだ」
慌ててオルフィは遮った。
「ただ、な。思ったんだ。あいつ……『ヴィレドーン』さ。多少の差異はあっても基本的に俺と同じはずだろ? なのに、やられちまったなあと思って。あ、剣戟の話じゃなくてな」
『では、その前の話ですか。『親友』に関するやり取り』
「まあ、な」
その辺だとオルフィは肩をすくめた。
「勝ち負けじゃないのは判ってる。でも思っちまうよ、負けたなあ、と」
『相手がいない、にはずいぶんとやられていたようですね』
声の指摘に彼は苦笑した。
「はは、そうだな。あれには参ったよ」
相手から離れてひとりで苦しんでいれば、相手の態度を目にして対応に悩んだりしない分、楽だと。若きヴィレドーンはそんなふうに。
彼がファローと――彼が殺したファローと――再びまみえることは不可能なのだから、逃げずに向き合えという助言には従えない。ファローが彼を許すという仮定をしても無意味だ。
しかし、ひとりで悩むことは楽な道であるという指摘は、彼の胸に深く刺さった。
「その辺さ。負けたと感じるのは」
『そうですか?』
「ん?」
『僕は、もし僕がそんなことで悩んでいたらオルフィが言ってくれそうだと感じましたよ』
「……ただのオルフィなら、言えたかもな。でも思い出してからは」
『同じです』
声は先取った。
『同じですよ、オルフィ』
「カナト……」
優しい声音。まるで彼こそがオルフィを許すのだとでも言うように。
事実、許してくれている。いや、あの出来事はオルフィのせいではないと、口先だけでも何でもなく、心底から言ってくれていた。
あの日のカナトに関わった人々から話を聞くたび、オルフィが感じていた嫌な歯車――〈名なき運命の女神〉が全てのささやかな歯車をカナトの死につながるよう仕組んだかのようだという苦い感覚すら、カナトは笑い飛ばすのだろう。それとも真面目に、そんなことはありませんと憤慨するのだろうか。
『さあ、ずいぶん長く話してしまいました。そろそろ、術師も戻ると思います』
「え?」
『さっき言ったように、僕の存在は彼らの前にない方がいいと思うんです。隠れていても、術師なら気づいてしまうでしょうし』
「ま、待てよ」
『話せてよかったです、オルフィ』
「そ、それじゃ……もう、こんなふうにお前の声は聞けないのか?」
『聞かない方がいいですよ。だいたい、常に僕が一緒だなんていうのもおかしいですし』
「いや、でも」
『おかしなオルフィ。生きていたところで、人にはどんな形であれ、別れというものがあるんですよ』
それが少し早まっただけですと声は悟ったように言う。
「でもさ、あんな別れ方は……なしだろ、普通」
『まあ、あまりよくある状況じゃなかったとも思いますけれど』
くすりと笑う様子が、彼の戸惑いを誘う。
「あの、さ。カナト」
すっと顔を上げ、オルフィはどことも知れぬ宙を見た。
「俺、判ったかもしれない。お前……」
だがそこで、彼は言葉をとめた。
「ま、いいや」
『おかしなオルフィ』
声はまた言ってまた笑った。
「いや、何つうか。あれだよ。判るべきときがくれば判るってやつ?」
彼も少し照れたように笑った。そしてわずかな沈黙が降りる。
『ではさよならです、オルフィ』
その重い沈黙を声が破った。オルフィははっとした。
「カナト! おい待てよ、本当に、もう行っちまうって?」
『声は届かなかったとしても、僕があなたの幸いを願っていることだけは間違いないと思って下さい』
「カナト、俺だって」
『エク=ヴーの加護は、あなたに必ず、ありますから――』
気配が途切れた。
それが、最後までカナトと名乗らなかった声の、最後の言葉だった。
オルフィは呆然とその場に佇み、声が聞こえはじめる前よりも、強い孤独を味わった。
もっとも、幸か不幸かその時間は長くなかった。声の言った通りに、ラバンネルが戻ってきたからだ。
「お待たせしました。ただ寝台に放り出してくるだけなら簡単だったんですけれど、ちょっとそれだと不都合がありまして」
魔術師は時間がかかったことを言い訳した。
「不都合、って?」
気持ちを切り替えるのが難しかったが、オルフィは何とか尋ねた。
「あんな格好で眠っていたら変でしょう?」
「それは」
オルフィは目をしばたたいた。
「今朝、ファローにも言われたな」
「そうですか。それならますます、必要でしたね」
「着替え……させた、とか?」
胡乱そうにオルフィは問うた。ラバンネルは片眉を上げた。
「別にかまわないでしょう。妙齢のご婦人でもあるまいし」
「まあ、そりゃ、かまわないけども」
もごもごと彼は言う。
(何もおかしなことなんかないけど)
(……何かむずがゆい気分)
こっそりと、そうとだけ思った。
まるで遊び疲れた子供扱いだ。「オルフィ」がされた訳ではないけれど、やっぱりヴィレドーンだって彼だ、という気持ちがどこかにある。
「それから、勝手な真似をして申し訳ありませんが、ファローさんの方にも今夜あなたと会ったことは夢だと思ってもらうことにしました。……あなたを信じていない訳ではないですが」
「あ? ああ、未来のことが判るような話をしなかったかってことか。まあ、いいんじゃないかな。しなかったつもりだけど、あいつは魔術師みたいに鋭いし」
言ってオルフィはあれっと思った。
「あのさ。ちょっと整理していいか?」
「どうぞ?」
首をかしげながらもラバンネルは掌を上に向けて促すようにした。
「『未来は変えちゃいけない』と『違う可能性がある』ってのはつまり、もともとの流れから変えると歪みが生じるが、そもそももともとの流れが違う場合があるってことだよな?」
「そうです」
驚いたようにラバンネルはうなずいた。
「よく理解できていると思います」
「ど、ども」
礼は言ったものの「カナト」のおかげだ。自分の手柄のように言われるのは少し恥ずかしかった。
「それじゃ、これだけ違うことが起きてるこの時間軸では、やっぱり……違うことが起こるって思って、いいのかな」
「どうでしょうね」
ラバンネルは懐疑的だった。
「現場がこの付近でなかったとしても、あなた自身に起きなかった出来事とは限りません。何しろ私の術で夢だと思うのですから」
「忘れてるかも、ってことか」
ううん、とオルフィはうなった。
「俺は、信じたいけどな。あいつが、ちゃんとファローを信じて、悪魔の誘惑なんか振り払うって。……自分に言うのも変だけど」
「それはここでもう十年も過ごせば判りますけれど、そうもいきませんね」
魔術師は肩をすくめた。
「ですが、信じていたらいいじゃないですか。彼を。ご自分を」
「術師」
「何しろ時間軸は無数にあるんです」
「そう、だよな。ぴんとこないけど」
彼は頭をかいた。
「うん、信じる。あいつはきっと大丈夫だ」
彼はきゅっと拳を握った。
「それで、整理はできました?」
「あ、そうだ」
オルフィははたと思った。
「悪魔は無数の時間軸を全部知ってるって話だったろ?」
「仮説ですが」
「でもあいつ、言ったんだ。『なかった』って」
「なかった?」
繰り返してラバンネルは眉をひそめた。
「何でも俺が、あいつの知っている以外のことをしたらしい。そんなことってあるのか?」
「先ほどの仮説によれば、考えづらいですね」
「苛立ってた。怒ってたのかもしれない。前に俺があんたたちとあいつの前から逃げたときだって、気に入らないという様子はあったけど怒ったって感じじゃなかった」
「そうですね。あのときは、好みの展開ではないが仕方がない、いずれ挽回するとでも言う様子でした」
「好みの」
では、と彼は思った。
(無数の時間軸のなかには、ニイロドスの好みの展開……俺があいつの言いなりになってナイリアンを滅ぼすようなものも、あるんだろうか)
「ない」から躍起になってそうしようとしているのか。それとも、違う世界を変えることを楽しんでいるのか。
実際にそうした世界があるという考えは怖ろしいものだったが、彼は首を振ってそれを振り払うことにした。
彼自身はそうならなかった。それでいいと思うしかない。
「悪魔の知らない時間軸、ですか。もしかしたらあなたは、とても貴重な瞬間に立ち会ったのかもしれない」
「貴重な、瞬間?」
「ええ。時間軸の誕生する瞬間」
ラバンネルはだいぶ真剣な顔をしていたが、どうにもオルフィにはぴんとこなかった。
「さあ、もう戻りましょう。アバスターが苛々して待っているでしょうから」




