09 どっちも生きるんだ
「くそっ」
避けるしかない。またしても飛びのこうとした、しかしその先に黒い影が両手を拡げていた。
「うわっ」
それに触れてはならないと思ったのは反射的な感覚だ。禍々しさはなくとも、この世ならぬものだということは判る。
だが、それだけでもない。
どうしてか、これにぶつかったり押しのけたりしては駄目だという感覚がある。それが先で、「この世のものではなさそうだから」という理由は後付けだ。
気づけば影たちは彼らを取り囲むように輪になっていた。まるで観客だ。
『ほらほら、逃げるだけじゃ駄目だよ、ちゃんと戦わないと』
ニイロドスの声がする。
『こんなところで死ねないだろう? 早く敵を葬るんだ。君にならできる。簡単さ』
悪魔は嘯いた。
『そこにいるのは成り代わるべき君。君がオルフィだったことなんか忘れてしまえばいいんだよ。君は、ずっとヴィレドーンで、いま十八だ。入れ替わることなんか、何も難しくない』
(俺は、オルフィだ!)
何度でも、繰り返すつもりでいた。みなが彼にオルフィであれと言い、彼自身もそう望んでいるように。
『名前を変えたって本質は変わらないよ』
ニイロドスはどうでもよさそうに言った。
『だいたい、君がオルフィであるって、何? どういうこと? 何だかんだ言いつつ、君はオルフィという名を冠することでヴィレドーンが犯した罪をなくしてしまいたいんだろうけど』
(違う。そうじゃない)
惑わされるな、とオルフィは思った。彼がヴィレドーンであったことは確かだ。だがいま、オルフィであることも確か。そういうことだ。
「彼」が「オルフィ」であることの証拠。それはたとえば、ジョリスからもらった五十ラル銀貨。父ウォルフットからもらった髪留め紐。
そうだ、と彼は思った。それらを忘れるな。彼がオルフィとして過ごした時間。それは幻なんかじゃない。
(俺はヴィレドーンだった。でも再びヴィレドーンに戻ることはない)
きっぱりと彼は言った。
『強情だね。嫌いじゃないよ』
ふふんと悪魔は笑った。
『でも君は、本当は、望んでいるんだ』
囁くように声は言う。
『僕らは力を貸す。でも目的を持つのは君たち。そう、いくら僕の力が強大でもね。無理に押しかぶせることはできないんだ。望まれていなくては』
つまり、と悪魔は含み笑いをしながら続けた。
『君は望んでいた。最初からやり直すことを。僕はそれを叶えてあげようとしているだけだ』
(違う)
彼はただ、繰り返した。
(そうじゃない!)
『頑張るね。でも敵とは戦わなくちゃ。君がどんな名を名乗ろうと、自分の命を守ることくらいはするだろう?』
「こいつは」
オルフィは歯を食いしばった。
「敵じゃないっ」
黒い影をよけたことで均衡が崩れた。ヴィレドーンはそこに容赦なく襲いかかってくる。
「終わりだ!」
「冗談っ」
ニイロドスに同調したくはないが、こんなところで死ねないということだけは間違いない。オルフィはかなり無理な体勢から斜め前方に跳んだ。
だがそれは騎士志願の若者に読まれていた。彼は素早く追撃し、刃はオルフィの服を裂き、左脇腹を斬った。
「うぐっ」
激痛が走る。だが速度を緩める訳にはいかない。彼は黒い影たちが作る輪の真ん中まで逃げて再び短剣をかまえた。
(防御に徹すれば、どうにか)
(……どうなるってんだ?)
戦いながら誤解など正せるものではない。かと言って向こうは自分の身を守るために戦うのだと信じて疑っていない。防御に徹し続けたところで、倒れるまでの時間が長くなるという程度。
(だからって、殺れるか!)
『どうして?』
悪魔が笑う。
『このままにしておけば、彼はファローを殺してしまうんだよ? 君が親友を守らなくちゃ』
「そんなことには、ならない」
『どうして?』
再び、問いが繰り返される。
『ラバンネルが君に何か言った? そして君はそれを信頼しているの?』
あざ笑うような声。
『僕はもう君の記憶をいっさい制御していない。なのに齟齬や欠落があるのはどうしてだと思う?』
「――知るか!」
『じゃあ教えてあげよう』
くすくす笑い。
『君の信頼するラバンネルこそが君の記憶の支配者だからだ、ヴィレドーンにしてオルフィ。君は君を利用して矢面に立たせている卑怯な人物を信じている。気の毒……ううん、滑稽、かな』
「何とでも言え」
彼は怒らなかった。
「ラバンネルを無条件に信頼してる訳じゃない。俺にだって、思うところは、あるのさ」
食いしばった歯の間から声を出す。
「――必ず、あるんだよ! あいつが助かる時間軸は! ここが、そうかもしれない!」
襲いかかる細剣を無理に短剣で跳ね上げた。ヴィレドーンは驚いた顔をした。無茶な行為でもあれば、それを成功させたということに対してでもあろう。
「貴様」
「俺はお前を殺さない! 俺も死なない! 俺たちはどっちも生きるんだ!」
オルフィは叫んだ。
その誓いが、呼んだのか。
ぱあっと明るい光が射した。もっとも、それを感じていたのはオルフィだけだった。
数秒でまばゆい光が消えたとき、オルフィは左腕に慣れた感覚があるのを知った。
「ア……アレスディア!」
そこには美しい青色の籠手が――もし人間にたとえるなら澄まし顔で――存在していた。
『これは、驚いたね』
ニイロドスは本当に驚いたように言った。
『困ったな。これじゃ、ロズウィンド王子との約束を果たせないじゃないか』
「へっ、何だか知らないが、お前の思い通りに行かないってのはいい気分だ」
ぽんとオルフィは籠手を叩いた。
「きてくれたんだな、アレスディア。頼むぜ、俺に力を貸してくれ」
「あんた……?」
ヴィレドーンは戸惑いの表情を浮かべ、少し距離を取った。
「何だ、その籠手は。さっきまで、なかったよな」
「その話はまたあとで」
オルフィは適当にごまかした。
「魔法か、妖術の類か?」
疑わしげな声だ。それは見慣れないものを目にした故の警戒であったが、先ほどからの魔物容疑を助長するようではたまらない。
「この籠手自体には魔術がかかってるが、いまのは俺にもよく判らん。ただ言えるのは、一種の助け手ってこと。そして俺の助け手は、お前の助け手でもあるってことをくれぐれも言っておく」
敵じゃない、と彼は繰り返し明言した。
「騙されるな。これは罠だ。いや、いまこのときの話に限らない。お前の前にはいずれ、お前自身と大事な人物の人生を左右する大きな罠が張られる。いいか、騙されるな。信じるんだ。お前自身と……お前の親友を」
「何を……言ってるんだ?」
オルフィに敵意がないことを感じ取りはじめ、ヴィレドーンは困った顔をした。
「どういうことなんだ。あんたはいったい」
『だからぁ。それじゃつまらないってば』
ぱちん、とニイロドスが指を弾く音がした。と、一定の距離を保っていた黒い影が迫ってくる。
「気をつけろ!」
オルフィは警告を発した。
「こいつら、何なのか、見当が」
つかないと言って彼はヴィレドーンに背を向けた。それは単純に影に立ち向かうためだったが、信頼を示す意味ともなった。
「何だか……襲いかかってくる感じでも、ないな」
短剣を握りしめてオルフィは呟く。
「本当に、あんたが呼び出したんじゃないんだな?」
「当たり前だ。んなことできるか。そう思わせようとした奴がいるんだって言った通り。どうやらそれは諦めたみたいだけどな」
ならば次は何をしてくるのか。ニイロドスに「オルフィ」を殺す気はないようだ。では「ヴィレドーン」を狙うのか。
(させるもんか)
(こいつがファローを信じて、過ちを犯さないで済む日のために)
(俺が守る!)
籠手の力ばかりを頼る気はないが、ないときよりもずっと自信が湧いた。安心感と言うのか。つき合いはそう長くないし、初めの内は厄介の種でしかなかったアバスターの籠手も、いまでは大事な象徴だ。
彼が――ヴィレドーンの記憶を持つオルフィが、戦うことの。




