07 まずいことなんか
大導師と呼ばれる魔術師は、くれぐれも「彼」に会わないようにと言った。
出会えば――どちらかが死ぬか、世界の崩壊につながることもあるからと。
大げさにも感じられた。脅そうとしただけではないか。だがラバンネルがそんな冗談を言う人間ではないことも知っている。いささか慎重すぎるかもしれないが、彼が言うからにはその可能性が少なからず存在するのだ。
だがオルフィは、そのとき瞬時に反応できなかった。金縛りに遭ったかのように動けなかった。
騎士を目指して友と精進している若い「ヴィレドーン」。「オルフィ」とほぼ同じ年だろう。その剣技はまだ粗く、力任せのところがある。姿勢も隙だらけだ。とても奇妙な感覚だが、いまの彼らが剣を合わせたなら「オルフィ」が勝つかもしれなかった。
「おい、大丈夫か」
月傘の女神の下で、「ヴィレドーン」が振り向く。オルフィは固まった。二対の褐色の瞳が、視線を合わせた。
逃げるか。せめて隠れるか。
「何でまたこんな夜中にこんな森のなかを? 俺も人のことは言えないが」
オルフィの倒れ込んだところはちょうど影になっていて、ヴィレドーンは彼の顔が見えないようだった。しかし、どう考えても時間の問題だ。もう動かなければどうしようも。
「何だ、びびってんのか? 俺は怪しいもんじゃない。何だか眠れなかったんでな、鍛錬を兼ねてちょっと走ってたんだ。そうしたら獣のうなり声がしたもんだから」
自分もオルフィを怖がらせていると思ったのだろう、ヴィレドーンは説明をした。
「山賊なんかじゃないぞ? これでもナイリアンの騎士志願だ。こう言えば、少しは安心するか?」
知っている。よく知っている。
それとも、知らない。「この」ヴィレドーンについては。
「どうした。腰でも抜けたか」
手を貸そうと言うのだろう。彼が歩み寄ってくる。オルフィはそのまま後ろに下がるという、相手を怖れているとしか見えぬ態度を取った。事実、ある意味では怖れてもいた。
会ってはならぬと。
「何だよ。助けてやったのに。それとも何か? 人に見られちゃまずいような事情でもあるのか」
(「人に」じゃなくて「お前に」だ!)
そう思っても言う訳にはいかない。
そこにいるのは、自分。自分ではない自分。
記憶に少しくらいの齟齬があっても、それはおそらく「覚え違い」程度で済ませられるほどの差異しかない。
ひとつにまとめた黒い髪――そうだった、この頃の「ヴィレドーン」もいまの「オルフィ」と同じくらいの長さを保っていた――、見覚えのある褐色の瞳。
「悪事に手を染めるのはやめておけよ。いいことないぜ。一時的には勝ったような気分になっても、あとからじわじわ敗北感や罪悪感が湧いてくる。……なんて言っても、俺のやった悪事なんざ、子供の頃に菓子をこっそり食べたくらいのもんだが」
(……やったな、確かに)
自分なのだ。
本当に。
「引き返せる内に引き返しておいた方がいい。余計な節介だが」
「あー……その」
悪い企みを持っていると思われたままでいるのも妙な感じだ。オルフィはどう言ったものか悩んだ。
「何も、まずいことなんか、ない。ただ驚いた、だけで」
声色を作ったが、あまり意味はないかもしれなかった。自分に聞こえる自分の声と外に聞こえる声は違うものだからだ。実際、オルフィにもこのヴィレドーンの声が自分のものだとは思えない。だがファローが声も同じだと言うのだから同じなのだろう。
「そうか。それならいいが。……立てるか?」
「だ、大丈夫だ。助けてくれたことには礼を言う。でも、もう、行ってくれないか」
「何?」
ヴィレドーンは片眉を上げた。
「ち、違う。本当に悪いことなんて考えてない。ただ、その」
オルフィは言葉を探した。
「そう、願掛け。願掛けをしてるんだ。ま、まじないってのかな? 森のなかで、その、夜中にやんなきゃいけないんだ」
思いつくままに言って顔を背ける。
「ひ、人に顔も見られたらいけなくて」
「……そんな願掛けが、あるのか?」
疑うと言うよりは単純に疑問に思ったという様子だった。
「いったい何の願掛けなんだ? ああ、まあ、そういうのは言えないか」
ヴィレドーンはつい尋ねてしまったことにだろう、謝罪の仕草をしたようだった。何だか心が痛む。自分相手に妙な気分だ。
「だが、ひとりは危ないぞ。たまたま俺が通りかかったからいいようなものの、武器や獣よけも持っていない様子だし」
「だい、大丈夫だ。もう終わるところだから」
何がどう終わるのか、自分でも判らない。
「送ってってやるよ」
「へっ?」
「顔を見なきゃいいんだろ? 安全なところまで、後ろからついてってやる」
「……え、ええと」
困った。
(――なあ、カナト! どうすりゃいい!)
思わずあの声に助けを求めた。だが返事はない。オルフィは肩を落とした。
(でもこれって、もう「会った」ってことに、なるよな)
そうとも思った。
(少なくとも、俺も向こうも死んでない。世界も……滅びちゃいないようだ)
しかし油断はならない。オルフィがヴィレドーンであることを気づかれれば、おかしなことになる。他人のそら似では済まない。当然ヴィレドーンは問い詰めるだろう。彼に何も洩らす訳にはいかない。それはラバンネルがアバスターにも禁じたことだ。
もちろんぺらぺら喋るつもりはないが、自分で言うのも何ながら、ヴィレドーンは〈漆黒の騎士〉になった――なる――男だ。どこから何に気づかれるか判らない。
(嘘をつく方は苦手だったが、見抜くのはまあ、それなりだったつもりだし)
ほぼ同能力であるふたりだが、嘘をつく側になるオルフィの方が不利な立場にいるということだ。
「せっかくだけど、遠慮するよ。あんな狼なんかもう出ないさ」
「そういうのは油断って言うんだ。確かにそうそう出るもんじゃないが、ここで放り出してあとで何かあったなんてことになったら俺が気分が悪いんだよ」
(そんなふうに言うと思った)
(俺だって、言うもんな)
苦笑めいたものが浮かんだ。
(無理に断っても、不自然だよな。ここは感謝して頼むことにして)
(何とかごまかすしか、ない)
オルフィは素早く考えた。
「じゃ、じゃあ、森を出るまでは言葉に甘えるよ。有難う」
「森を出たって安全じゃない。どっからきたんだ? まあ、あんまり遠くじゃ俺もつき合えないからな、隣町くらいまでなら」
「連れがいるんだ、すぐ近くに」
遮ってオルフィは言った。
「連れ? そんなのがいるのに、ひとりで?」
「ひとりでやらなきゃならないことだったんだよ」
「まさか何か呪術の類じゃないだろうな」
「違うって! 俺がそんなことする顔に見えるかよ!?」
「顔は見たらいかんのだろ?」
「う、そ、そう。駄目だ」
(顔を見たら驚くよ)
「おかしな奴だな」
ヴィレドーンはそう言ったあと、しかし苦笑した。
「だが不思議なもんだ。状況を取れば怪しいのに、俺はどうしてか、あんたは悪い奴じゃないと思ってる」
「んあ」
オルフィは変な声を出した。礼を言うのも妙だ。
(これって結局「自分」だもんな)
「自分」が呪術なんてものに手を出したりしないという自信――とは、違う。ヴィレドーンの方はまさかオルフィが「自分」だなんて思っていない。当たり前だ。ほんのかけらほどだってそんなことを思うはずもない。
だが何か感じ取っている。知らず知らずの内に。
「とにかく、森の外まで連れてってやる。連れがいるってのはどっち側だ? もし迷ってたんなら方角でもいい」
「大丈夫だ、判る。こっちだ」
言ってオルフィはヴィレドーンの先に立った。
(ほんと、変な気分だ)
(背後に……俺がいる)
過去の自分。少々違う体験もしているようだが――ファローと出会っていることもだし、こんなふうに夜の森を散歩して「誰か」を狼から助けたことも、もちろんなかった――それでもヴィレドーン・セスタスだ。〈はじまりの湖〉の畔にある村からやってきて、成功を夢見ている若者。




