10 嫌な夢
その夜――。
オルフィは、なかなか寝つけなかった。
ひとり、こっそりと、籠手を外そうという努力を繰り返した。
もちろん、それは無駄だった。装着したあの瞬間から変わることなく、その籠手はまるでオルフィの腕そのものになったかのように外れることを拒否していた。
出るのはため息ばかりだ。
(外れないだけでも大ごとなのに)
(俺の手を勝手に操って、戦うだって?)
恨めしげに青い籠手を見つめる。
(だけど、俺が悪い、んだよなあ)
たとえ誰かが「それは〈定めの鎖〉がもたらす、変えることのできない運命だったのだ」などと言ったとしても、オルフィは「そうか」などと思えなかっただろう。
もしもそんなことがあったとしたら、先ほどの喧嘩――戦い――以前に、彼の手は操られていたことになる。
箱をくるんだ布を開き、留め金を外し、籠手を取り出してその左手に着けたのは紛う方なき彼自身の手であるはずなのに。
(俺はカナトに、「決まっていたことなんだから仕方ない」ってのは諦めるための言い訳だ、みたいなことを言ったけど)
(それもちょっと、違うかもな)
(俺はこれが決まっていたことだと言われたってちっとも楽になんかならない)
(何も、俺のせいだと思いたい訳じゃないけど)
(……俺のせいであることは事実であって)
ああ、とうなって彼は枕に顔を埋めた。
(眠れない)
ごろごろと狭い寝台の上を転がりながら、オルフィは息を吐いた。カナトの寝息が聞こえる。
(俺も寝なくちゃ)
(明日はカナトの言うように魔術師協会へ行って)
(全てを)
(……全て)
そこにはまだ迷いがあった。
自分の愚かさ加減については、別にいくら話したってかまわない。恥じ入ることではあるが、それだけだ。
問題はジョリスのこと。
〈白光の騎士〉に託されたという話をしてしまっていいものか。
(そりゃリチェリンたちやカナトたちには話したけどさ)
(「俺」の状況を話すのとは、違うだろ)
カナトの信頼する相手とは言え、魔術師だ。いや、魔術師だからどうだと言うのではない。オルフィが知らず、オルフィのことを知らない相手。
話すのは彼の状況ではなく籠手の。
(ジョリス様のご迷惑になるようなことだけは、もう、絶対にできない)
その気持ちが強かった。
(協会に行くより先にジョリス様にお会いしたいけど)
(まだお戻りじゃないよなあ)
南西部から首都へやってくる道はオルフィらが通ってきたものだけだ。彼らを追い抜く馬などはなかった。休んでいる夜の間に抜かれたとしたら判らないが――。
(念のため、王城に行ってみるのがいいかな)
(でも、ジョリス様にお会いしたいなんて言っても門前払いかなあ)
(はああ)
ごろり、と寝返りを打つ。
カナトの言うように、魔術師でも神官でも、とにかく協力を得ていち早く籠手を外すことが優先か。
それともやはりジョリスに全て話すことの方が。
(ううん)
(決められない……)
どちらが正しいのか。どちらがジョリスの迷惑にならないのか。彼の持つ手札で判るはずもなかった。
(ジョリス様は、どうしていらっしゃるんだろう)
(黒騎士を……追いかけて)
その銘の通り輝く光をまとった〈白光の騎士〉が、闇から生まれ出たような「黒騎士」と剣を合わせる姿が、閉ざしたまぶたの裏に見えたような気がした。
(そうだ、ジョリス様なら、きっと)
(あんな不気味な奴を退治して)
(ナイリアンに平和をもたらして下さる)
「――れば、我らは従うだけだ」
いつしか落ちていた夢の淵で、彼は誰かの声を聞いた。
(……ジョリス様?)
夢の世界は霞がかっていた。目を凝らしたつもりでもよく見えない。しかし目に映る人影は〈白光の騎士〉の姿に似ていた。
「従うだと」
誰かが低い声で返した。
「何とも、笑わせてくれる。どんな理不尽なものであっても盲目的に従う、それがお前の誓いか、〈白光の騎士〉」
刺を隠すことなく発された言葉に〈白光の騎士〉は何か返そうとした。だが彼は結局押し黙ったか、或いはその声はオルフィの耳に届かなかった。
(いったい誰と話してるんだろう)
オルフィは目を細めたり見開いたりしてみたが、どうにも見えない。次第に、その向こうに誰かがいるという感じもなくなってきた。
かと思うと。
「――がきます!」
緊迫感のある、鋭い声がした。オルフィはびくりとした。
「正確に跳ね返して下さい! あなたたちになら必ずできます!」
彼は慌てて振り返った。声は背後からしたように感じられたからだ。
だが見えない。誰かいるような気がするが、人影の形すらろくに判らない。
「任せろ」
別の誰かが言った。それは堂々と自信に満ちた声だった。
「お前、大丈夫か?」
力強いその声に危惧が混じった。
「……何とか、やってみよう」
(ん?)
返答したもうひとりの声にオルフィは引っかかった。
(いまの)
(ジョリス様を糾弾してた人の声じゃないか?)
相変わらず、状景はよく見えない。ならば言葉を聞き取ろうと彼は耳を澄ました。
「気合いを入れろ! ここで踏ん張れば、終わりは近い!」
二番目の声が叫んだ。やはり緊張しているようだった。
(うわっ)
オルフィは耳をふさごうとした。そのとき、とんでもない轟音が聞こえたからだ。
だがこれは夢だ。たとえ寝台で横になっている彼が実際に耳をふさいだとしても、音が弱まることはない。
大地を揺るがすような衝撃がきた。それから。
(何だこれ)
(熱い!)
視界が真っ赤になった。夢のなかにいる彼が衝撃を受けたのか。
それとも。
(苦しい)
(い、息が)
息ができないと感じた。だが夢だ。本当に息が詰まるということはないはずだが、当のオルフィは苦しさを覚えて胸をかきむしった。
不意に、鋭く剣の合わさる金属音が聞こえた。
すると熱は嘘のように消えていた。
(いまの音は?)
誰かが戦っている。そのことには間違いがなかった。
(あっ)
そこは暗い街道であるように見えた。ふたつの人影が合わせる刃から火花が飛び散るかのようだった。
(あれは)
ごくりとオルフィは生唾を飲み込んだ。
(ジョリス様だ!)
やはりはっきりとは見えない。だが確信があった。
薄い月明かりに輝く白き鎧。きらめく金の髪。
(相手は、まさか)
対する剣士の鎧は、闇に溶けるような漆黒。それだけでジョリスが不利なのではないかと思えた。
(……黒騎士)
騎士と呼ばれる者たちが剣を振るう。まばゆいばかりの銀の剣と、墨で塗りつぶしたような黒い剣が音を立てて合わさる。
(すごい)
(速い)
オルフィは眠りのなかでどきりと鼓動を弾ませ、剣戟を見つめた。
(ジョリス様ももちろんすごいけど、あいつ)
(黒騎士も……相当、できる)
ふたりの騎士はオルフィのような素人の目では見て取れない高度な技術で剣をさばき、時に飛びすさっては時に飛び込んだ。その力はほとんど拮抗しているように感じられる。
オルフィはもどかしい気持ちでそれを見ていた。
(もしも俺に何か)
(ジョリス様の手助けができるような力があれば)
握った拳に力が入った。そこで左腕にあるものを思い出す。
(籠手)
(この籠手のおかしな力で、ジョリス様を助けることができないだろうか)
考えてはみたものの、巧くない。剣士たちの戦いは、先ほどのような酔っ払い相手の喧嘩とは違う。左手が勝手に伸びて強烈な一撃が発されたとしても、上級者たちの乱舞のような剣技を前に何になると?
そうする内にも二者の戦いは続き、オルフィははらはらとそれを見守る以外なかった。
白と黒の剣士は近づいては離れ、離れては近づいて、その決着はいつまでもつかなさそうだった。
(あっ)
突如、ジョリスがこれまでになく大きく後退した。どうしたんだろう、とオルフィが思う間もなかった。
オルフィがもし剣士の目を持っていたとしたら、ジョリスが見せた大きな隙に気づいて、何ごとか、作戦だろうか、などと訝しんだことだろう。
だが彼は素人だ。オルフィには判らなかった。ただ大いに驚いた。変わらず鋭い剣を突きつけてきた黒騎士を前に、ジョリス・オードナーは――。
「ジョリス様!」
悲鳴を上げてオルフィは飛び起きた。隣ではその叫び声に仰天したカナトも起き上がっている。
「どうしたんです、オルフィ」
「あ……夢か……」
全身にぐっしょりと嫌な汗をかいていた。
「カナト、悪夢を払うまじないとか、知ってるか?」
「悪夢ですか? そうですね……」
少年は考えながら手指を動かした。
「正式な魔術ではなく、魔力を込めるものではありませんけど、少なくとも古くから伝えられているまじないです」
オルフィはカナトの指の動きを真似、真剣に祈った。
「嫌な夢は、人に話せば散るとも言いますよ」
「まじで?」
「さあ、事実かと言われますと判りません。僕たち……魔術師たちの間では逆に、言うことで確定するという考え方だってあるくらいですし」
カナトは肩をすくめた。
「――ジョリス様が」
「え?」
「いや」
オルフィは首を振った。
「やめとく。ごめんな、起こしちまって」
「いえ、お気になさらず」
少年は答えたが、むしろ彼の方がオルフィの様子を気にしているようだった。
「……休めそうですか?」
「ん? ああ、大丈夫大丈夫」
(年下の子に心配させるなんて、情けないよな)
笑みを浮かべてオルフィは言った。もっとも彼自身の思惑とは異なり、それは少々引きつっていた。
「さあ、寝直そう」
何ごともなかったように気楽に言うと、オルフィは再び横になった。薄目を開けて、カナトも同じようにするのを見届ける。
だが――安らかなものはもとより、浅い眠りでさえ、そのあと彼を訪れることはなかった。
(……ジョリス様)
〈白光の騎士〉が黒い剣に貫かれる不吉な夢の光景はあまりにも強烈で、オルフィは目を閉ざすことすらできないまま薄明を迎えることになった。
(第4章へつづく)




