09 やってない
息を荒くして彼らが足をとめたのは、噴水のある小ぎれいな広場だった。
夜の更けてきたこの場所では、恋人たちが逢瀬を楽しむ姿がそこかしこに見える。逃げるように、いや実際逃げて駆け込んできた若者ふたりは、いささか場違いであるように感じられた。
だが辺りの雰囲気になどかまっていられない。彼らは黙ったまま、肩を上下させながらどうにか息を整えようとしていた。
「オル、フィ」
先に声を出したのは――絶え絶えという感じだったが――カナト少年だった。
「巻き直し、ましょう、か」
「あ、ああ……」
オルフィはそっと左腕を持ち上げた。
「いや、大丈夫そうだ」
そう言ってそのまま、左拳を右手で包み込む。
「なあカナト。俺、何をした?」
「……オルフィだって、見ていたでしょう」
「うん。そうだな。でも信じられない」
彼は呟いた。
「俺だって、喧嘩のひとつやふたつはやってきたさ。理由なんかは下らないけど、そのときは本気で腹を立てて、同世代の奴らと殴り合ったり取っ組み合ったりしてきた。でも冗談にも慣れてるとは言わないし、だいたい……」
右手を外し、そっと左手の指を曲げ伸ばしする。
「利き腕じゃない方の拳一発で、人をのしちまうような技も力も、ないはずだ」
偶然、当たりどころが悪くて――よくて、だろうか?――相手を昏倒させてしまうこともあるかもしれない。だがそれにしたって、狙いすました一発があってこそだ。いや、狙おうと狙わなかろうと、とにかく手を出していなければどんな一撃も当たりようがない。
「なあ、カナト」
彼はまた少年の名を呼んだ。カナトに呼びかけたかったと言うより、間を置いて考えたかった。
「俺は、やってない」
どう言えばいいのか判らない。まず出てきたのはそんな言葉だった。
「俺は、手を出してない。殴られるんじゃないかって思ったけど、それに対してとっさに応戦できるほどは喧嘩慣れしてないし……だいたい」
今度は右手で拳を作った。
「誰かを殴るなら、俺は利き手を使うよ」
無意識なら、なおさらだ。
「そう、でしょうね」
カナトは、何を馬鹿なことを――などとは言わなかった。
「僕自身は喧嘩なんてしたことありません。乱闘を見たことが一度だけ。ですが、それでも判ります。人が人を殴り倒すには、力の溜めが必要で……力自慢の大道芸人だって、こう」
少年もまた右手で拳を作ると右半身ごとそれを引き、軽く一歩踏み抜いた。
「こんなふうに、身体の回転を利用して力を作り出したりするものです。でも、先ほどのあなたにはそれがなかった」
オルフィの腕はただ伸ばされ、まるで気軽に友人の肩でも叩こうとするかのようだった。だと言うのに、酔っ払いは吹っ飛んだ。
「魔力の発動は、特には感じられませんでした。ですが、常に発動しているのだと考えれば、その瞬間に差異は認められないかもしれません」
「やっぱり、これの」
若者はそっと包帯の上を撫でた。
「せいだと思うか?」
「ほかに何だって言うんです?」
「いや、思いつかないけど」
「間違いありません。オルフィが伝説の怪力男みたいに、手にしたものをみんな破壊してしまうような腕力の主でないのなら」
「……腕を動かしたって意識さえ、なかったんだ」
ぽつりと彼は言った。
「拳を握ったつもりもなかった。その、喧嘩のときにはさ、ただ普通に握るんじゃ自分の指を痛めちまうから、指を内側に折るなんて聞いたことがあるんだけど、俺はそんな練習したことなくて」
でも、と彼は続けた。
「俺の左手は、そうなってた。殴ったときは、殴った分だけ痛かったけど、指そのものに支障はないと思う」
曲げ伸ばしをしても、不自然な痛みはない。
「籠手が、やったのか? 俺の腕を……指まで、操って?」
小声で彼は尋ねた。
「そうとしか考えられません」
カナトも小さく答えた。
「オルフィ、こうなったらいまの騒動は不幸中の幸いだったとでも言えそうですね」
「幸いだって? どこが」
「それはもちろん、早く行動しなければならないことが判ったからです」
少年は真剣に言った。
「籠手の呪いは、装着したら外れないということだけじゃない。敵意を持つ者を前にして、その籠手は戦うんです。あなたの意思とは無関係に」
「戦う……」
呆然とオルフィは繰り返した。
「待てよ! だいたい、籠手って防具じゃないのか!? 何で攻撃するんだよ!」
「まあ、その、〈攻め続ければ防ぐ必要はない〉とも言いますし」
「そういうことじゃないと思うが」
「主の、それとも自分の身を守ろうとするのか、それは判りませんが」
少年魔術師はまるで籠手に意思があるかのように言った。
それとも、あるのだろうか?
「夜の首都見物はやめましょう。今日はもう宿に戻って、明日の朝一番で協会に。信頼できる導師がいますから、全て話す覚悟を決めて下さい」




