02 ぎりぎりの線上
「仇討ちの気持ちがあると言えば、満足か」
ロズウィンドは肩をすくめた。
「ではこのまま、貴殿の研究を進める手伝いをしなくてはな」
その言葉に悪魔が笑っていたのは、まるでロズウィンドがその話題を終わらせたがっているかのようだったからだろうか。
「お出かけかい、王子殿下」
ニイロドスは楽しげなまま問うた。
「彼女のことは放っておいていいのかな? 君の妹君のことだけれど」
「放っておくつもりなどはないさ。ただ、いまはひとりでいたいようでね」
兄は肩をすくめた。
「時間をやった方がいい。初めての出来事にかなり参っているようだから」
「人間にしてみれば、君のような所行を悪魔の仕業と言うのかな?」
悪魔は両手を拡げた。
「僕は大好きだよ、『悪魔的』なことをする人間。それも狂気に満ちてぎらぎらしていると言うのでもない、淡々とそれをこなすのがね」
「狂気?」
ロズウィンドは片眉を上げた。
「狂気にならば、とうに取り憑かれている。〈はじまりの地〉を逃げ出して生き延び、正統なるものを取り返すことを夢見ながらも結局何ひとつ行動できなかった先祖たちの欲望と怨念」
彼は手を振った。
「もちろん、何の基盤もなければできることなどなかった。未開の土地を耕し、村を作り、町に育て、国を興した。その労力は生半可なものではなかっただろう。しかし」
王子は顔をしかめた。
「ひと仕事成し遂げたとばかりに、落ち着いてしまった。確かに大きな仕事だ。初代や、安定するまでの次代までは仕方あるまい。だが目的は、貧しい土地に君臨することではなかったはず。やがては彼らもそれを思い出したが、それでも、国力の差から何もできぬまま、ほぞを噛んだ」
彼は遠く西の地を見やった。
「何も祖先の無念を背負って戦う正義の戦士になるつもりはなく、亡霊たちの狂気は契機に過ぎない」
取り憑かれていると彼は、読んだ書物の内容を大まかに説明するかのように簡潔に話した。
「ふうん?」
ニイロドスは首をかしげた。
「でもそれは、言い訳……と言って悪ければ、大義だろう? 大義名分。君が大義を果たそうと心を決めた本当の理由は、とても個人的なものではなかったかな?」
「否定はしない」
ロズウィンドは肩をすくめた。
「小国の王として慢心した父と、小国の王妃として増長した母。あれらに反発したからこそ、私は行動を起こした。それに呼応するように力が顕れ――貴殿が現れた」
「運命、というところかな」
知ったように悪魔は言った。
「僕は君の、その怒りに惹かれたんだ。そして捨て身の決意とでも言うのかな」
「捨て身?」
「そうだろう? 君の望みは〈はじまりの地〉を取り戻すことだけ。大国に君臨したいと言うんじゃないんだから」
「成程、それが捨て身か」
ロズウィンドは可笑しそうに笑った。
「未来のない刹那的な望み。感情に任せた欲。冷静になって考えれば、ほかのやり方だってあるだろう。時間はかかるし、叶うとは限らないが、自らを失うことはない」
「堅実なやり方という訳か。多くの者は、私がそうした気質だと考えている。いや、実際、その通りだ。刹那的な、衝動に任せた判断は好まない」
「でも、この件に関してだけは」
「そうだな」
ロズウィンドは口の端を上げた。
「思いがけず人生を変えるのは衝動的な決断だ。熟考の上で計画の穴を見つけるのは賢いようでもあるが、大きな進展はない」
「ふふ」
悪魔の笑いはなまめかしかった。
「では、あれも衝動的?」
「あれ?」
「どんなだった? 妹は」
「『どんな』」
ロズウィンドは首をかしげ、それから微笑んだ。
「こればかりは内緒だ、セル・ゾッフル。知りたかったらこっそりご覧になるといい」
「ふふ、面白い話だ、ロズウィンド」
ニイロドスはひらひらと手を振った。
「女を力ずくで手に入れると言えば、まるで下町のちんぴらだけど、君もリヤンも魂ごと支配しようとする。最初からそれを意図している。そこが悪魔的」
「人間にできることは限られている。有効な手段を探せばそうなるさ」
「探して見つけても巧くやれないこともあるね。或いは倫理観というような制限のために実行できず」
ああ、と悪魔はあごに手を当てた。
「君の弟君はそうしたぎりぎりの線上にいるのかもしれないね」
「ラスピーシュのことは」
ロズウィンドは窓の外を見た。
「あれは気まぐれな鳥だ。どうせ大人しく座ってなどいられない。いまは意外なほど静かだが、『これまでの借金』を返すようなつもりで、ことが落ち着けばまたあちこち放浪をはじめるだろう」
「おや、それでいいの」
「かまわない。あれで内心では『遊び呆けていること』に罪悪感を抱き続けるから。各所で、私のためによく働くだろう」
「成程ね」
悪魔は納得したようだった。
「でも大丈夫かな?」
そこで首をひねる。
「どんな意味であれ、ウーリナが君たちの弱みであることは本当だ。ナイリアンが彼女を狙ったのは正しい。そして同時に彼女は君たちのかすがいでもあった。ほかでもない兄上が妹の花を散らしたと知ったら、彼も黙っていないのではないの」
「問題はない」
ロズウィンドは答えた。
「ウーリナが黙らせる」
「へえ、彼女が二番目の兄上に窮地を訴えはしないという自信があるんだね。君に夢中になると」
「夢中? いや、生憎だがニイロドス殿。そういう話ではないな。ウーリナが望むのだ」
「何を?」
「望まない、と言うべきかな」
王子はひとつうなずいた。
「ウーリナは、自分が兄たちの不和の種になることを望まない。そういうことだ」
「ふうん、よく教育してあるんだね」
「何も洗脳した訳ではない。もともとの素養と、争いを避けるエクールの教えが奏功したのだろうな」
「ふうん」
その返答をどう思うのか、悪魔は相槌を打っただけだった。
「まあ、いまはナイリアンの話をしようか。こうして爆弾がはじけたからには、放っておいても瘴気は濃くなる」
「獄界の瘴気か」
ロズウィンドは少し顔をしかめた。
「いかな蛮族の民と言えども、民衆を怖がらせることは目的ではないが」
「判っているよ、もちろんね」
くすっと悪魔は笑った。
「君が望めばいつでも引かせられる。不徳なナイリアン王家を排除し、新たなる正統な王が民を助ける。それまでにそんなに時間はかからないだろう?」
「できればもう少しコルシェントの亡霊に翻弄されてほしかったが、まあ、いい。私がラシアッド国王になり、同じく国王となったレヴラールを追い落とすという予定は、画としては整っていたが、所詮、形式でもある」
彼はゆっくり立ち上がると、何も知らぬ誰もが、いや、知っていたところで穏やかで優しいと感じてしまう笑顔を浮かべた。
「さあ、エクール湖に向かうとしよう。湖神にもそろそろ目覚めてもらわないとならない」
「準備はもういいのかい」
「とっくに整っているとも。あとは神子がエク=ヴーを呼び起こすだけ」
「聞くところによると」
ニイロドスは両腕を組んだ。
「湖神はいないんだろう? あの湖に。たとえ神子が役割を自覚していくら呼ぼうとしたところで、湖の畔からその声は届くのかな?」
「もちろんだ」
危惧も躊躇も見せず、ロズウィンドはうなずいた。
「畔の村が危機に陥れば、湖神は必ず、やってくる」




