13 覚えのある気配
「ぐぉっ」
死体でも痛みを感じるものか、はたまた衝撃が人体の構造的に「音」を発させたものか、コルシェントはうめきを洩らした。
「おのれ」
魔術師がそれ以上何かする前に、騎士はうつぶせにさせて両手を後ろに取った。
「いけません、ジョリス様」
再びピニアが金縛りから逃れて言葉を発した。
「その状態でも、彼ならば術を振るえます」
「何」
「遅い!」
怒りに満ちたコルシェントの声と同時に、鋭い痛みがジョリスの腕を襲った。血飛沫が舞い、床に散る。
「甘いな! 押さえ込んだところで術は防げぬ、そして既に死んでいる私は殺せぬ。お前は負けるのだ、ジョリス!」
耳障りな声でコルシェントは叫んだ。
そのとき、光が走った。
いや、「それ」はジョリスにだけ見えていた。コルシェントもピニアも、それを見ることはできなかった。
まるで誰かがその光の球を手にし、コルシェントに投げつけたかのようだった。
そして、それは水風船のようにはじけ飛び――静寂が、訪れた。
「いま、の、光は」
半ば呆然とジョリスは呟いた。彼の身体の下で、死体は本来の形に――動かないものに、戻った。
かと思うと、それは、崩れた。ジョリスは驚いて立ち上がる。
「これは」
コルシェントであったものは、長い年月の間放置されて腐食した金属が急に力を加えられたかのように、見る間に崩れて、茶色い粉の塊と、なった。
「これが、悪魔の力を借りた者の末路……か」
ジョリスはきゅっと眉根をひそめ、それでも――追悼の仕草をした。
「キンロップ殿やイゼフ殿ならずとも、神官を呼び、祓い清める必要がありそうだな」
「あの……」
ピニアがそっと声を出した。
「光と、仰いましたか……?」
小さく、占い師は尋ねた。
「ああ。貴女は目にしなかったか。光の、球のようなものが……ここに」
「光の球、ですか?」
彼女は尋ね返し、ジョリスはうなずいた。
「見えませんでした。ですが、かすかに、覚えのある気配が」
ピニアは眉をひそめ、そしてはっとしたように目を見開いた。
「何か心当たりがおありか」
「まさか。でも……似ていました」
そっと彼女は両手を組んだ。
「――アミツ」
「アミツだと」
「ええ。ヒューデア殿の近くにあった気配。私がそれを目にすることは叶いませんでしたし、彼と話していてその気配がアミツだと思ったことはありませんでした。ヒューデア殿の波動の形と、感じていたのだと思います」
女は瞳を閉じた。
「アミツが……それともヒューデア殿が、ジョリス様に力を」
「ヒューデア」
ぐっと彼は拳を握った。
「……アミツ。感謝を」
キエヴの作法は知らない。独特の作法があるとは聞いていないが、彼が教わらなかっただけであるのかもしれない。
だからただ、彼は感謝をした。
「ヒューデア殿は、言っていました。ジョリス様に恩があると。あなたが亡くなったと聞かされたとき、彼は何も返せずにいたことをとても、悔やんで」
「返してもらうことなど何もなかった。だがもし、そのような思いが彼を死出の旅へ導いたのであれば……いや、よそう」
運命は変わらず、逝った者は帰らない。帰るということがコルシェントのような形になるのであれば、帰るべきでもない。
「神よ。どうかヒューデアの魂が安らかに眠りにつくことを」
小さく、彼は祈りを捧げる。
「そして伝えられるのであれば、このように。――全て片をつける。もはや何も案ずるな、と」
その言葉を終えたときだった。ふと気が抜けたように、彼の両膝から力が抜けた。彼がみっともなく倒れ込まなかったのは、鍛え上げた反射神経にほかならない。
「どうやら、薬の効き目が切れたようだ」
ジョリスは呟いた。
「一刻は効くだろうという目算だったが、導師殿が誤ったと言うよりは、温存されるべきものを少々派手に使いすぎたのかもしれんな」
苦笑いをして彼は言った。
「薬……魔術薬ですか」
ピニアも学んでいるだけあってすぐに気づいた。
「まあ、無茶ばかりなさって……」
そこでジョリスが少し笑ったので、ピニアはどきりとした。
「な、何でしょう。私、何か、おかしなことを」
「失敬、そうではない。どういう形にしてもそう言われるようなので、そのように行動している自分が可笑しかったのだ」
「ほかにも無茶と言われるようなことを」
ピニアは呆れるやら案じるやらで困ったような顔を見せた。
「もっとも、ラバンネル術師が私の状態を鑑みて配合を考えて下さった薬ということだ。案じるには及ばない。擬似的な回復術とは違い、早めに切れることで安全を保ち、こうして休息を指示するのだとか」
彼女を心配させまいと彼は途切れ途切れの言葉で説明したが、その内容も話し方も、休息が必要な状態であることを示すだけだった。
「すまないが」
ジョリスは額に手を当てた。
「ひと休みできる場所をお借りしたい。それからサクレン導師に連絡を。キンロップ祭司長へ、彼女から――」
そこが彼の限界だった。彼はその場に座り込み、床に手をついた。ピニアは驚いたが、魔術薬が突如切れることは知っている。だから「無茶を」と言ったのだ。
ピニアは改めてジョリスを見た。
口にしたことは少しも嘘ではない。「あれ」はジョリスではなかった。〈白光の騎士〉との再会を怖れたのは、彼を前に恐怖を思い出すことをこそ避けたかったからだ。
そう、同じ顔であろうと似ていなかった。
彼女が憧れた騎士はここにいる。
もちろん彼はナイリアンの民であれば、いや、もしかしたらそれ以外であっても、弱者を全力で守ろうとするだろうが――。
ピニアの脳裏には少しだけ、憧れの騎士が彼女のためだけに戦ったという、娘らしい想像が浮かんだ。
しかし以前のように、その想像に頬を染めることはなかった。
彼女のジョリスへの憧れは変わらない。彼女とジョリスの間にあるものは、何も変わらない。
それでも、あの怖ろしい記憶がいまでも彼女を掴んで離さない。
魔術師が命を落としても。魔術の契約が消えても。その身体が目の前で崩壊しても。
あの忌まわしい言葉の通り、リヤン・コルシェントは彼女を呪縛したままだった。
ピニアはもう二度と、以前のようにただ純粋な気持ちは抱けない。ジョリスは変わらず、ふたりの関係も変わらないのに、ピニアだけが、変わってしまった。
だが、そんな気持ちに浸っている状況でないことは判っている。彼女は首を振ると、男手を呼んでジョリスを客室に連れさせ、腕の切り傷――深いものではなかった――の治療を指示してから、すぐさま騎士の言葉を実行に移した。
しかしながら――。
そのとき、既にサクレンもキンロップも、ピニアの館で起きた出来事をゆっくり聞くことのできる状況にはなかったのだった。
(第4章へつづく)




