14 月傘の女神
「……は、本当に情けないよな。二度もぐらつくなんざ」
オルフィは首を振った。
「だがな、カナト。俺には判らないんだ。これはやっぱり夢なんじゃないのか。いや、そうじゃない。俺はお前の声を借りて、俺に都合のいい言い訳をしてるんじゃないかってこと」
誘惑をはねつけたなら、カナトは戻らない。そのことを自分で納得するために、カナトが拒否したと思いたいのではないか。
『ひとつ。悪魔の手を借りて蘇るってことについて考えて下さい。奇しくもアバスターが言った通り。その蘇った僕は、本当に『僕』ですか?』
「生き返るのとは、違うって……」
『『悪魔の仲介』が入ることの怖ろしさをオルフィは判ってない。いや、判っているのに無視しようとしている』
そう言われては黙るしかなかった。その通りだからだ。
『ふたつ。ロズウィンド王子のこと、オルフィは気づいていなかったんでしょう。あなたの知らない事実を指摘してくれるほど、あなたの夢は便利なんですか?』
声は厳しくなった。何だか睨みつけられている気がした。
『最後にもうひとつ。夢だったら何なんです。もしこれが夢なら、あなたは『カナト』が認めてくれれば拒絶できると思っているということで、そうするべきだと判っているんじゃありませんか。それなのに何です、いつまでもぐだぐだと。そんなんじゃリチェリンさんに振られますよ』
「ぐぐ」
オルフィは返す言葉がなかった。
「負けだ、負けだ! 完敗だよ」
判っていたのだ。最初から。悪魔の手を取ることにどんな正義もありはしない。
たとえ正義がなくても、とも思った。彼らが助かるのならと。
いまだって、全く思わない訳ではない。どこかにはその妖しい思いがある。
しかし、少年魔術師のまっすぐな瞳を思い返すと――もう、悪魔の誘惑に乗るなどということは、考えられなくなった。
不思議でもある。その瞳を失ったことを悔やんでいるのに。
だが偉大だ。「返事」は。
動かなくなり、何も言わないカナトを前に淡々と話し続けたときの胸の痛み。いまその「姿」は目の前にないのに、まるで何でもなかったあの日の前と同じようにぽんぽんと言い返してきたり、不意に謝ったりするこの声を耳にしていると、見えてくる気がする。
歪んでいた視界が、はっきりしてくる気がする。
『それじゃ、オルフィ』
「――戦う」
短く、はっきりと、彼は言った。
そうなのだ。答えはこれしかなかった。
霧が晴れたその先が崖淵であったとしても、見えぬまま突き進んでいればただの終焉、いやそれよりも酷い破滅。
見えたからこそ、手段も講じられる。その手段がいまは判らずとも、考えることができる。
「俺は、考えることを拒否してたみたいだ」
呟くように言えば、カナトがほっとしたような笑みを見せた気がした。
『では彼らのところに行って下さい。あなたが戻るには彼らの力が必須ですから』
「アバスターとラバンネル術師のことか」
『ええ』
「お前、もしかして知ってんの。あの人たちのこと」
『ええ。一応。もちろんこれは「伝説みたいに知っている」ということではないです』
「何だよ、それ」
思わせぶりな言い方だと感じたのはオルフィの気のせいではない。声は悪戯っ子のようにくすりと笑ったからだ。
『あっ、すみません。もったいぶってるつもりはないんですけど。いまのオルフィにはちょっと判りづらいかなって』
「充分、もったいぶってるよ」
苦笑してオルフィは返した。
「でもかまわない、その方がいいだろうとカナトが判断したなら、訊かないよ。いまはね」
『そうですね。あとで』
声はまた繰り返した。
『気をつけて。オルフィがここから逃れようとするのは悪魔の気に入らない。その決意に気づいて何をしてくるか、判ったもんじゃありません』
「あいつに刃は、効かないからな」
ヴィレドーンの記憶が呼び起こされる。
「もっとも、直接邪魔をしてくることもないだろう。あいつは高みの見物が大好きなんだから」
悪魔にとって人間は――ヴィレドーンでもオルフィでも、おそらくはハサレックやロズウィンドだって――ただのおもちゃだ。
「俺が彼らと行ったってかまわないなんて言い方はしてたけど」
『そうした『迷い』も好物なんじゃないでしょうか』
声は嫌そうだった。
『相手の意図が判らないと、対応が空回りするということがあると思います。普通なら二度手間は面倒ですから、なるべくそうしたことのないように確認したりするものですが』
「二度手間三度手間だろうとこっちがとことん翻弄されるのを楽しむって訳か。けっ、性質の悪い」
『今更でしょう』
「だな」
悪魔の性質が悪くないはずもないのだ。
「だが、判ってきた。いや、最初から判ってた」
オルフィは息を吐いた。
「こっちに美味い餌があるって誘導は、何も相手が悪魔じゃなくたって罠の可能性を考えるべきだよな。〈儲け話なら回ってくるはずがない〉ってなもんだ」
判っていながら、彼らの命や無事という「儲け」に目が眩んだ。そのこともまた、よく判っている。
「……なあ」
オルフィはきゅっと拳を握った。
「時間軸が無数にあるなら、さ。ファローが、助かってる場所も、あるのかな」
『必ず、ありますよ』
「そ、っか」
それならいい――などとは言えない。だが少しだけ、ほんの少しだけ、安心できるような錯覚に陥った。それは痛く甘い錯覚だった。
『オルフィ!』
突如、声が警告の色を帯びた。彼は驚いて顔を上げた。
『気をつけて! 森の奥に何かいます!』
「早速、何か仕掛けてきやがったか」
彼は腰を落とし、辺りを見回した。
「さて、籠手どころか剣もなしでどこまでやれるかね」
『僕がお手伝いできたらいいんですけど』
「できない訳?」
『ちょっと、無理です』
「了解。ただの確認だ。謝らなくていいからな」
先取って謝罪を遮り、彼は気配を探った。がさり、と枯れ葉を何かが踏む音がする。
「野犬、いや、狼……?」
うなり声を発し、赤い目を光らせて迫ってくる四つ足の獣は、何匹もいるようだった。
「やー……これはさすがに、〈漆黒の騎士〉全盛期でも、きついと思うんだが?」
顔を引きつらせて彼は呟いた。剣があればともかく、素手で何匹もの狼と戦えるかと言えば、非常に困難だ。
『死なせる気は、ないでしょう。せっかくあなたという「玩具」で遊び続けているんですから』
「死なない程度にいたぶってくれようってのか。有難い話ですこと」
冷や汗が浮かぶ。
姿を見せた獣はやはり狼のようだった。それが三匹。
もっとも、すぐさま襲いかかってくるということはなかった。うなりながらじりじりと近づいてきたかと思うと、一定の距離を保ったまま。
「『こっちにきちゃいけません』ってのか? ずいぶんとひねりのない」
狼たちのいる方向は、両雄のいる方角だった。まるで単純な「通せんぼ」のようだ。
「あまりにも判りやすい逆道標だが、何のつもりなのか」
ただ行かせまいとしているのか。しかしニイロドスにしては芸がないような。
「そりゃ、芸なんてなくていいんだが」
危険だからとすたこら逃げるのも何だか悔しい気持ちがある。もちろん、敵わない相手からは逃亡するのだって戦術のひとつであり、「ヴィレドーン」だって名誉のためだけに死のうとは思わない。騎士として戦場に立てばそれもまた必要なことになるかもしれないが、それはまた別の話だ。
だが――。
『逃げて!』
声が叫ぶように告げた。
『急いで下さい、オルフィ!』
「えっ」
『いいから早く!』
焦るような声色。
「わ、判った」
こくりとオルフィはうなずいた。その瞬間、それをやめさせようとするかのように一匹が飛びかかってきた。
「うわっ、くそっ」
正面から襲われることはかろうじて避けたものの、鋭い爪が右腕をかすめた。オルフィは均衡を崩し、それを立て直す間にもう一匹が襲いかかってくる。それには倒され、仰向けの状態でのしかかられた。
『オルフィ!』
悲鳴のような声と、衝撃はほぼ同時にやってきた。
いや、衝撃を与えられたのは彼ではなく、彼にのしかかっていた獣だった。
きゃんきゃんと仔犬のような可愛らしい声を上げて血を流した狼が飛びすさったとき、オルフィが考えたのは「アバスターが助けてくれたのか」というようなことだった。
「おいっ、無事か!?」
しかし、それはアバスターでもラバンネルでもなかった。
張りのある若い声。
聞いたことのない。
だが本当は――誰より、聞いたことの、ある。
「このっ、狼どもめ。森の奥へ帰れ!」
その人物は細剣を素早く操り、別の個体を刺し貫いた。狼たちは怯み、どこか悔しそうなうなり声を発して、そして、逃げていった。
「ふう、やれやれ」
彼は剣を拭って鞘に収めた。
「狼なんざ、この辺じゃ出ないはずなんだがなあ。連中の生息地で何かあったのか」
考え深げに言う若い声は彼には耳慣れないのだが、同時に、誰より耳にしている。
オルフィは目をあらん限りに見開いて、その不思議な光景を見ていた。
晴れた夜空には明るい月が出ていた。だが池にも映るそれはいまや、優しい月の女神ではない。不吉の象徴、月傘の女神だった。
青白い顔色をした女神が見守るなか、気遣わしげに狼たちの去った方角を眺めているのはほかでもない、ヴィレドーン・セスタスだった。
(第3章へつづく)




