13 夢じゃない
あのエクールの湖で、彼らはずっと前に会っていると。
少年魔術師に酷似した声は、確かにそう言った。
「……いや、それって、変だろ」
だがオルフィはまずそう返した。
「俺は、つまり『オルフィ』は、カナトとおっさんと、三人で行ったときが初めてだった。『ヴィレドーン』には故郷だけど、その時代、お前はまだ影も形もないはずじゃんか」
カナトはオルフィよりも年下なのだから、ヴィレドーンと会っているということもないはずだ。
「どういう意味だ? 俺とお前がエクール湖で最初に会ってるってのは」
『そのままです。でもオルフィは覚えていない。判ってます』
「おいおい。お前は覚えてるっての? ずるいんじゃない?」
思わず彼はそんなふうに言った。声はくすりと笑う。
『じゃあオルフィも思い出したらいいんですよ』
「んなこと言ったって、覚えてないもんは覚えてないんだよ」
彼は頭をかきむしった。
「ケチらないで教えてくれよ。もしかしたら覚えてないほどガキの頃ってことか? でも最長でも十年前くらいだろ。そしたら俺は八つくらいだし、全く覚えてないってこともないと思うんだけどな」
『思い出せないなら、思い出さなくていいってことです』
「何だよ。拗ねんなよ」
そんなふうに言えば声は苦笑した。
『違いますよ。魔術的な話です。思い出すべきときがくれば思い出します』
「思い出すべきときがくれば……」
はっとオルフィは思い出した。
「そうだ、カナト。訊きたいことがあったんだ!」
ごそごそと彼は隠しを探り、そしてがっかりした。
「あれもないのか」
『何のことです?』
「いや、こっちにきてから、籠手がないんだ。いま、それは王城にあるんだから当たり前なのかもって……うん?」
そう言ってからオルフィは顔をしかめた。
「それっておかしいな。いまって話をするなら、俺、この場合はヴィレドーンだってアバスター……さん、だってラバンネル術師だって『ひとり』しかいないはずだろ。なのにこの場所にこられてる。俺は装備なんて持ってなかったけど、彼らは持ってる。なのに、何で籠手だけ?」
彼の言うことはいささか散漫だったが、声は理解した。
『つまり、左手にあるはずのアレスディアだけが一緒にやってこなかった。そういうことですか?』
「そう。そうなんだ」
こくこくとオルフィはうなずいた。
『ううん……あれはかなり特殊なものですからね。時間の流れに逆らうことを拒否したのかもしれないです』
「そう言えばアバスターが」
ふっと思い出すことがあった。
「自己主張の激しい籠手だって」
『成程。言い得て妙だと思います』
くすくすと声は笑った。
「でも、アバスターの右手には、あったんだけどなあ」
『そうすると、彼はアレスディアを使いこなしているがオルフィはまだだ、という解釈もできそうです』
「それなら、ま、納得できる」
自分を卑下するつもりはないが、殊に「ラバンネルの魔術」という点が絡めば、アバスターに一日どころではない長がある。
『それで『あれ』というのは?』
「ないのはアレスディアだけじゃない。お前の守り符も」
『僕の?』
「つまり、カナトの、ってことだけど」
この声はカナトだ。そう思うと同時に、声がそれをはっきりと肯定しないことが少し気にかかる。
「タルー神父様からミュロンさんに渡って、お前が託された護符。それと、俺がラバンネルだと知らないで彼から預かった、お前の母さんの形見。あれらは表裏一体で、合わさって一枚になるものだった。お前は気づかなかったみたいだけど、ミュロンさんは、気づくべきときがくれば気づくだろうと思ったから特に言わなかったんだって」
『ああ、あれですか。あの守り符も独特なものなので、同じように時間の流れに逆らうことをよしとしなかったのかもしれませんね』
声は理解したようだった。このことが判るなら、やっぱりカナトではないかと思うのだが。
『そうですね。僕はあのとき突然、そのことに気づきました。記憶という瓶を閉ざしていた蓋が、不意にぽんっと開いたみたいでした』
「記憶を閉ざして、いた?」
『そうです。言ったでしょう、オルフィばかりじゃない、僕も覚えていないことがあったんですよ』
「どっ、どういうことなんだ。教えてくれよ」
『その話は、オルフィが元の時間軸に戻ってからにしませんか?』
カナトがにこっとするのが見えるようだった。
『あいつは、悪魔は、あなたをこっちにとどめたいんです。その方がこっちでも元の時間軸でも都合がいいから』
「都合がいいってのは?」
『ロズウィンド王子やハサレック・ディアに都合がいいってことです』
「……ハサレックはともかく、ロズウィンド?」
繰り返してからオルフィは目を見開いた。
「まさか! ラスピーの兄貴がハサレックを匿ってるのかよ!?」
『そうです』
「ロズウィンド……まじかよ」
彼は額に手を当てた。優しそうな王子に見えたのに、まさか。
「でも何でお前が、そんなこと」
『僕はいま『オルフィの知っていること』は知ってます』
「は? いや、でも俺、そんなこと知らなかったぜ」
『すみません、言い方を変えます。オルフィと一緒にいたように、オルフィが見聞きしたことを知っています。そのなかで気づいたんです』
ロズウィンドに悪魔の気配があること、巧みに隠してはいたが、「魔術師」である彼には奇妙な気配が感じられたと。声はそうした説明をした。
「そう、なのか」
オルフィが戸惑うのは、彼自身が気づけなかったということにだけではない。この声の主が魔術師であるのならやはりカナトだという、繰り返される思い。そして、そのカナトがずっと彼を見守るように、彼と一緒にいたのかという――。
『あ、違いますよ』
しかし声は言った。
「な、何が」
『僕がオルフィの守護霊みたいになって『取り憑いてた』訳じゃないです。言うなればあなたの記憶を知ることができるんだと思って下さい。言っておきますが、私的な事情については何ひとつのぞいたりしてないので安心して下さいね』
「んなことは、心配しても疑ってもないけど」
そう、疑わない。オルフィの気づかないことにカナトが気づくであろうことも。
「じゃあまさか、ラスピーも」
不意にいくつかのかけらがはめ絵を完成させるかのようだった。
「最初っから、みんな知ってて」
そんなに親しい訳ではない。最初はただおかしな男という印象で、やがて他国の密偵だと告白され、次にはコルシェントの死の目撃者にしてラシアッド第二王子とのとんでもない話を聞かされた。
だが考えてみれば、それが既に妙ではないか。
人材不足だの何だのと主張していたが、クロシアのような人間もいる。ただナイリアンの動向を見ておくならクロシアだけで十二分のはずだ。
ウーリナのこともあって王子自ら出てきたのかと思えなくもないが、それにしてはあちこちに――首を突っ込みすぎていたのでは。
『少なくとも兄王子と共謀していることは、間違いないかと』
何だか声の調子は申し訳なさそうだった。
『すみません』
「だから何で謝るんだ」
「カナトらしい」様子に思わずオルフィは、知った情報の衝撃よりも苦笑してしまった。
「教えてもらって悪いことなんかないに決まってる」
『有難うございます』
「礼を言うのはこっちだろ、どう考えても」
実にカナトらしい、と言える。だがそれが喜ぶべきことなのか、やはり哀しみを呼ぶことであるのか、まだよく判らないままだった。
『そういうことも、いずれ』
「えっ?」
『ですから。ラスピーさんやロズウィンド王子のことも。オルフィがちゃんと、本当の自分を取り戻したら話しましょう』
声はそんなふうに言った。
「本当の、俺って」
それは夢のなかで夢を見ているかのようだった。
彼の知らない昔のファロー。「あの日」のすぐあとだと言うアバスターとラバンネル。会ってはならないもうひとりのヴィレドーン。ここまでがまるでひとつの夢で、そのなかで見ているのが、死んだカナトの。
『夢じゃないですよ』
少年魔術師とよく似た気配は、オルフィの心を読んだかのように言った。
『確かに僕は不確かな存在ですけど、あなたはそうじゃないですし』
「不確か」
『僕のことはいいんです。とにかくオルフィ。元の場所、いえ、時間に戻ることだけを考えて下さい』
「でも、カナト。それじゃお前が」
『僕はここにいます』
声は遮った。
『いるんです、オルフィ。だから悪魔の誘惑に乗らないで』




