09 思い出してもらえたら
『たとえばあなたとファロー。あなたにしてみれば、まだ会ってはいないはず。ではどちらが正しいですか?』
「え……それは、別に」
彼は惑った。
「どっちが正しいとか、ないだろ」
『その通りです』
うなずく様子が、見えた気がした。
『僕もその辺りは詳しくないので推測ですが、あなたなり彼なりが「元の世界」とはひとつ違う街路を通った、その程度の違いから発生した誤差だと思います。時にその誤差は大きな変化を生みますが、この場合はそうでもない。おそらく自然と、あなたのいた世界と同じ形に収束を遂げていくでしょう』
「それは、生死に関わるようなことじゃないから、か?」
『生死が大きな変化を生むというのはあくまでも一例です。先ほども言ったように、曲がる角がひとつ違う、それが潮流に変化を与えることもある。もっとも魔術師はでき上がった潮流を運命と呼び、異なる流れは起こり得なかったとするものですが』
「でも」
彼はしつこいほどに「でも」を繰り返した。
「起こり得たんだ。ここの『違い』がそれを証明してる!」
『それが悪魔の手ですよ』
嘆息混じりに声は諭した。
『たとえば予言です。明日危険な目に遭うと予言された人はありとあらゆることに注意するでしょうが、注意しなかった場合と同じ危険に遭います。これは潮流は変わらないということです』
「でも」
『確かに、人が取ることのできる選択はひとつです。そして取らなかった選択の先を知ることはできない。変わったはずだと信じたくなるのは判ります』
「で、でも」
『『でも』は、もうなしです』
ぴしっと声は言った。
『判って下さい……オルフィ。そんなふうに哀しんでくれるのは、嬉しいようでもありますが、やっぱりつらいです。ましてや』
声はいささか、暗くなったようだった。
『そのために、よくない選択に惹かれているなんて』
「カナ……」
ごくりと彼は生唾を飲み込んだ。
「――俺は、お前を呼んでいいのか? その……カナト、って」
この声の調子はカナト少年が発したものに酷似している。話す口調も内容も、カナトとしか思えない。しかし夜の精霊――どんなものか知らないが――の悪戯ではないのかという懸念も、少しだけ。
ただその懸念は「騙されているのでは」というものではない。たとえこれが夢であっても、カナトと話ができたと思えば喜ばしい。目覚めたときにはきっと切ないし、冥界でも案じさせているのかと思えば情けなくもなろうが、それでも。
だから確定させたいというのは、わがままだ。
そうであってくれたらという希望。
『いいですよ、好きに呼んでくれて』
しかし彼の感傷に反して、何とも軽い答えがきた。
『オルフィが僕をカナトだと思うなら、それでいいです』
「何だよ、それ」
彼は目をしばたたいた。
「それってやっぱり、違うって、ことなのか」
『うーん、そういう訳でも、ないんですけど』
「どっちなんだよ」
彼は明確な答えを欲しはじめていた。
「カナトとしか思えないことを言うのに」
『難しいんですよ。僕が僕であるということと、カナトであるということは、似て非なるものでして』
「まさか」
オルフィははっとした。
「お前にも、何か違う名前が? つまり、俺がヴィレドーンであったように」
カナトにはみんな話したつもりでいた。話したのは彼の死後ということになるが――生きていても、話すことを決めただろう。だからもしここで「何のことです」と返ってきたとしてももう一度話すつもりでいた。
もとより、その必要はなかった。声はそれを何でもないことのように話し続けたからだ。
『近いかもしれません。厳密に言えば違いますけど』
「ええ?」
『すみません。巧く説明できなくて。でもこれだけは言っておきますね。僕は僕であり、オルフィは僕を知ってます。少なくとも僕は、あなたを惑わして食べてしまおうという物の怪じゃありません』
「はは」
乾いた笑いが浮かんだ。
「幽霊じゃない……か」
声がいま言ったのは霊体という意味ではなく妖怪に近いことだと理解はできた。だが、死した者が生ける者に対して「自分はベットルではない」と告げる奇妙な皮肉、矛盾、〈ドーレンのねじれ輪〉が何だか痛い。
『もう、どうして笑うんです?』
困惑したような言い方。それとも少し、拗ねたような。
『酷いなあ。本当は確信してるくせに』
「確信……」
どうなのだろう。これはカナトだ。そう思う。ただ「そう思いたい」だけではないのかという――。
「ちょっと、判らないんだ」
ぼそりと彼は呟いた。
「どうしてお前は……俺と同じ記憶を持って、この四十年前の、異なる軸にいるんだ?」
『ああ、そのことですか』
何でもないように声は言った。
『あんまり、時間は関係ないんです』
「は?」
『これも巧く説明できないなあ。どう言えばいいんだろう』
「それってのは、つまり」
あまり言いたくない。
「――冥界では、とか、そういう」
『あ、そういう意味でもないです』
またしてもさらっとした返事。
『ただ、ひとつ思い出してもらえたら、少しは疑問が氷解するかもしれないんですが』
「思い出す?」
オルフィは首をかしげた。
「俺が何か、忘れてるって?……そりゃあ、いろいろ、忘れてたけど、『オルフィ』部分で欠落した記憶は特にないけどな?」
『そうでしょうか?』
声は聞き返した。
『僕とあなたは、あなたが思うよりずっと前から会っているんですよ』
思わせぶりな物言いにオルフィは目をしばたたいた。
「三年前ってことなら判ってるさ」
『いいえ、そうじゃありません』
声は否定した。
『思い出せませんか? あなたは、まだ』
「カナト……?」
彼は声をそう呼んだ。もう、そう呼ぶことしか考えられなかった。
だが、いまの言葉は意味が判らない。三年前よりも先に会っているとは。
『会っているんです。そして一緒に時を過ごしました』
風が吹いて水面を揺らし、池の月を歪ませる。
『あの――エクールの湖で』




