13 何も訊かないで下さい
丸眼鏡をかけ、首筋に赤い布を巻いた見知らぬ青年は、彼女にライノンと名乗った。
「ジラングさんがここを見つけたんですけど、これ、本当は数人がかりか、道具でも使って開ける扉じゃないのかなあ。酷く苦労しましたよ」
まずライノンから出てきたのは愚痴のような台詞だった。
「たぶんそこは倉庫で、ここから大きな荷物を下ろしたりするんでしょうね。別に秘密の出入り口ということはないようですけど、警戒はされてなくて」
見張りの類はいませんでしたとライノンは肩をすくめた。
「さ、大丈夫ですか? 怪我なんかは」
「していません」
リチェリンは首を振った。
「あの」
「はい?」
「さっきの、すごい音は? 火事ですか? あの子が火をつけたの?」
不安に思っていたことを尋ねると、ライノンはぺちんと自身の額を叩いた。
「あれはちょっと……話さなくっちゃなりませんか?」
「どういうこと?」
「いえ、その、少々……言いづらいことがありまして」
「犯罪ということ?」
顔をしかめてリチェリンは尋ねた。彼女を助けるためでもあれば糾弾したくはないが、ほかのやり方もあったのではないかと――。
そこで彼女は振り返り、館を見た。
「火の手は、上がっていないようね」
「ええ、もちろんです。ちょっと危険なことはしましたけど、火を放つなんてしてませんから」
「少しだけ安心できたわ」
ではあの音が何だったのか、それを聞かない限りは完全に安心できないが、少なくともジラングが放火したということはないらしい。
「とにかく、いまは早く離れませんか。ここは裏手で誰かくることはほとんどありませんが、騒ぎが起きている以上、人がいつもと違う行動を取ることも考えられます」
ライノンに誘われてリチェリンはその場所を離れた。辺りをきょろきょろとすれば、ずいぶんと寂しい感じのするところだ。首都スイリエのなかとは思えなかった。
「スイリエのすぐ近くですよ。数十分もかからない」
青年は言った。
「王家の特別領があるんです」
「特別領? それじゃ、普通の人は入れないんじゃ」
「はい。入れません」
にっこりとライノンは答えた。
「見て下さい。あの壁。スイリエの外壁より高いんじゃないですかね。お城の尖塔は見えますけど、逆に言えば向こうからも、尖塔以外からはこっちが見えないってことに」
彼は天を仰ぐように尖塔を見て、それから肩をすくめた。
「厳重に管理されてるんですねえ」
「じゃあどうやってここに」
彼女は当然の問いを発した。
「秘密です。ということにさせて下さい」
「ええ?」
「あまり言えない手段です」
「……まあ、そうでしょう、ね」
入ってはならない場所に入る。どんな手を使うにしろ、やはりそれは犯罪ということになるだろう。
「本当は、あんまり目立つことはできないんですよね……カーセスタと先生にご迷惑はかけられないので」
少し肩を落としてライノンは言った。
「あっ、でもどうせ、リチェリンさんにも体験してもらわないとなりませんね」
それから気づいたように彼は頭をかいた。
「それも、そうね」
ほかに方法がなければ、出て行くのもやはり同じやり方になるだろう。
「この辺でいいかなあ」
今度はライノンが辺りをきょろきょろ見回した。
「すみません。失礼ですが、お手を」
少し赤くなって青年は手を差し出した。リチェリンは理解して、そっと自身の手をそれに乗せる。
「どうするの? もしかして、あなた」
「しっ」
静かにとライノンは制止した。
「目を閉じて下さい。僕がいいと言うまで」
「……判ったわ」
信頼できるのか判らない。しかし信用するしかないだろう。
「――いいですよ、開けて下さい」
囁くような声にリチェリンが目を開ければ、そこは驚くべき場所だった。
「えっ!?」
場所と言うよりは、まず明るさ。暗さと言うべきか。たったいままで昼間だったのに、急に夕暮れ刻になったような。
「しっ。あまり大きな声を出さないで。ここは繊細な場所なんです」
「は、はい」
ごめんなさい、とリチェリンが謝ればライノンはもう片方の手を振った。
「いっ、いえいえ。驚くのは当然でした。僕の配慮が足りませんでした」
「あの、ここは」
「あまり周りも見ないで下さい。僕といれば危険はありません。ただ前を見て、歩いて」
「あの」
「すみません、何も訊かないで下さい」
本当に青年が申し訳なさそうだったので、リチェリンにもその気分が伝染し、彼女はまた小さく謝った。
そうして何だか判らない場所を歩いたのは数分だった。または数分と感じられた。再びライノンが目を閉じるように言い、リチェリンはそれに従った。目を開けたときは昼間の光がずいぶんと眩しく感じる。
「あの……」
「どうですか?」
「え?」
「気分、悪くないですか? そこそこ長距離になってしまったので、どこかに変調をきたしていないといいんですが」
「長距離?」
リチェリンは首をかしげた。
「どういうことなの? ここは……『特別領』じゃないわね?」
つい先ほど目にした高い外壁が見えない。街のなかではない。寂れたような街道。少し坂道になっている。
「ちょっと行き過ぎました。ほんのちょっとでよかったです」
ライノンは息を吐いた。
「何しろ僕はこの辺のこと知りませんし、あんまり遠ざかっちゃうと気配も感じませんし」
「気配? 何の?」
「あなたには判るんじゃないですか? たぶんですけど」
自信なさそうにライノンは先を指した。
「あなたがこの道を通ったのは一度きりでしょうし、幼すぎて記憶はないかもしれませんけど。本当はご存知のはずですよ」
彼は目を細めるようにして自らの指す方向を見たあと、リチェリンにゆっくりと視線を戻した。
「この坂を登り切って開けた向こうに何があるか。あなたは」
ご存知のはずですと彼は繰り返した。
「私が、何を」
(一度、通った? この道を?)
(この先? 気配を感じる?)
(いったい)
さあっと風が吹いたようと思った。
だがそれは普通の、或いは実際の風ではない。
その風は彼女の頬ではなく、身体のなかを撫でていったように感じられた。
「あ……」
リチェリンは胸の辺りを押さえた。
知っている。彼女はこの、風ならぬ風を。
そう、彼女は知っていた。
この風が、エクール湖から吹いていることを。
(第2章へつづく)




