09 話をしたい
自分にはどんな資格も権利もない。
そう感じたのは極端な自虐でも自己憐憫でもなかった。そのつもりだ。
たとえば彼以外の誰かが同じ罪を犯したなら思うような心持ちだ。大いなる矛盾をはらむ考えだが「国王殺しの大罪人にどんな権利もあるものか」「ファローを殺した奴が生き延びているなんて許せない」というような。
しかし、そうした強く鋭い感情さえ、時間という大河にかかれば角を丸くし、緩くなっていくもの。
二十年。それとも三十年。或いは――ひと月程度。
ヴィレドーンがファローを殺した日から三十年。オルフィが人生をはじめてから二十年。オルフィがヴィレドーンを取り戻してからひと月。
あれからどれだけ経ったと言えるのか、主観を交えるとさっぱり判らなくなる。
それでも、たとえ百年が過ぎようとも、彼の罪は許されるものではない。たとえ神が許そうとも、彼自身が許さない。
「悪いな、こんな時間に」
小さな声で、彼は囁いた。
「かまわないが」
時刻は深夜に近い。思いがけず扉を叩いた友人に金髪の若者は少し眠そうにしていたが、つっけんどんな態度を取ることはなかった。
「話が、あるんだ」
「何か悩みが?」
心配そうな顔。
「今朝は様子がおかしかった。そのことを問うても、そんな話はしていない、化け狐に騙されたんじゃないかなどと言って笑うし」
「あー……」
笑ったのは「本物」――と言って悪ければこの時間軸――の、もうひとりのヴィレドーンだろう。
「悪かった、ちょっと事情があって」
「だからそれを聞かせろと言っているんだ」
長めの髪をかき上げてヴィレドーンの友は顔をしかめた。
「いまも様子がおかしいな」
若い友が言う。
「俺は」
話したいことがたくさんある。だが、それは全て「話せないこと」だ。
ラバンネルに忠告されなくても、話すことはできなかっただろう。
「……すまない。今日の俺は確かに変だ」
彼は言った。
「今日は……いまは、俺は奇妙なことを口走るかもしれない。だがどうか、黙って聞いてくれ。それで、この場限りで忘れてくれ」
何とも無茶苦茶な話だ。彼自身がこんなことを言われたら、何かあったのかとまず追及するだろう。
「――判った」
だがファローはそうしなかった。懸念を隠すことなくその瞳に浮かべてはいたが、まるで「彼」に時間がないことを知っているかのように――そんなはずはないのだが――うなずくと、座るよう促した。
「酒でも?」
「いや」
手を振って彼は片眉を上げた。
「飲むのか? お前が?」
「眠れないときには、たまに」
ファローの返答に彼は少し戸惑った。
「……悩みでもあるのか?」
「いや、そういう訳でもない」
少し笑ってファローは手を振った。
「王城を訪問する前日など、緊張して眠りにつけないというようなことだ」
「そう、か」
彼の知る、堂々とした〈白光の騎士〉ファローとは違う。このファローは二十歳そこそこで、まだ登城にすら慣れない。
「だがお前にこそ、何かあるのだろう? だから」
「俺も酒に強い訳じゃないし。ろくに話をする前に、寝ちまうよ」
せっかくだけど、と彼は断った。ファローは判ったとうなずいたが、どこか不思議そうな顔を見せた。
(何だ?)
(「ヴィレドーン」だって別に、そんなに飲んだ訳じゃないぞ)
(でもこのふたりは、もしかしたら)
「彼」の知らない時間がある。「このファロー」と「このファローの友人であるヴィレドーン」には。
それはとても奇妙な感覚。
感じた軽い目眩を振り払おうと、彼は首を振った。
「ならば香り水にしておくか」
「いや、別に……」
「私自身、少しのどが渇いた」
ついでだ、と友人は言って棚のところに行くと、杯をふたつ用意して水差しから香草の緑色に薄く染まった水を注いだ。それから燭台に火を入れ、戻ってくると小さな丸卓の上に杯を並べた。
「では、聞こうか」
ファローは言い、彼は感謝の仕草をした。
「悩みがあるっていうのとは、違うんだけど」
考えながら言葉を紡げば、ファローは黙って聞いていた。
「……話をしたい」
彼は続けた。
「今日、どんなことがあった? いや、別に今日じゃなくてもいい。昨日は? 明日の予定は、何かあるか? 来旬は。来年は。――十年後、二十年後は」
「ヴィレドーン……?」
「ああ、違う、そうじゃない」
何を言っているんだ俺は、と彼が苦笑したのは演技でもごまかしでもなかった。
本当に、苦笑しか浮かばない。
いったい自分は何のためにここに。
「今日は、何か変わったことでもあったか? 俺のこと以外で」
「そうだな……」
ファローは、それはとても奇妙に思っただろう。だがやはり問い返さず、考えるようにした。
「蛙が」
「……蛙?」
「ああ。三本杉の先に池があるだろう?」
「あ、ああ」
曖昧に返した。そんな池のことは「彼」は知らないからだ。
「今日は通り道を変えて、あちらの方を走ってみたんだ。そうしたら悲鳴にも聞こえる奇妙な声と、水に大きなものが落ちるような音がした。誰が人が落ちたんじゃないかと茂みをかき分けて行ったんだが」
ファローは肩をすくめた。
「それが、蛙、だった?」
彼は尋ねた。
「そう。水面に波紋を残して、優雅に泳いでいた。とてつもなく大きかった。人間の半分はありそうだった」
真面目な顔で友人は話した。
「池には主と呼ばれる巨大魚がいると言われるが、あの池ではきっと蛙が主なのに違いない」
ひとつうなずいてファローは彼を見た。
「どう思う?」
「は、はあ」
「それは、信じていないという顔だな。もっとも正直、私も信じられずにいる。今度、探しに行ってみないか」
笑って言うのが冗談かどうか、判別しづらかった。
(……ファローってこんな奴だったか?)
(そりゃあ、この頃のこいつのことは知らないんだが)
「彼ら」だって他愛もない話をした。ごく普通の若者たちが話すように、どこの店の料理が美味かっただの、給仕娘が可愛らしかっただの――これは「騎士」の話題には上りづらいが、皆無ではなかった――そんなことも語れば、向こうの街道で立派な木が紅葉していただの、そうだ、美しき魔物が棲む伝説のある池の話などもしたことがある。
だがそうした話題は、話の流れのなかで出てきたものだ。
巨大な蛙を見たなどと素っ頓狂な話をファローからはじめるとは。
(まあ、そりゃ、いまは俺が頼んだんだが)
「お前は蛙が好きじゃなかったか?」
「……あ?」
突然の問いかけに彼は妙な声を出した。
「子供の頃、故郷の湖の傍で蛙を捕まえたなんて話をしていただろう」
「あ、ああ」
そうだったかな、と彼は考えた。話したかもしれない。大した話ではないよく覚えていないが――。
(「俺」は、話してないかもしれないのか)
またこの、不思議な感覚。
「別に、特に好きって訳でもないな。少なくとも嫌いじゃないが」
「そうか。巨大な蛙なんて言ったら興味を持つかと思ったんだが」
「……作り話か?」
「いいや、本当に見た」
「そ、そうか」
(もしかしたら俺を励ますためなのかもとも思ったが)
(よく判らなくなってきた)
彼の知るファローもときどき冗談なのか本気なのかよく判らないことを言ったが、彼が本気にしているようだと判れば笑って冗談だと言ったものだ。




