05 足し引きが合いません
ぱちぱちと火のはぜる音が心地よかった。
強ばっていた身体がふうっと楽になっていく気がする。
落ち着いている場合ではない、という気持ちもあったが、慌てたところでどうしようもないのは事実。
「はい、焼けましたよ、ほら」
「要らん」
剣士は言った。
「その木の実は、嫌いだ」
「全く」
魔術師は嘆息した。
「聞きましたか? これが稀代の英雄アバスターなんて称賛される人物の、真の姿ですよ」
「何が真の姿だ。俺は自分を偽ったことなんか一度もない。勝手に英雄様化されて美化されて、かゆいったらありゃしない」
ぶつぶつとアバスターは言った。
「はい、ヴィレドーン君」
その嘆きを無視してラバンネルはオルフィに焼き串を差し出した。
「あ、ども」
オルフィは素直に受け取った。
「これ、何すか」
「『知恵の実』です」
「あ?」
「オクアの樹になる実ですよ。そのままではとても堅くて食べられないのですが、じっくり火を通すととても美味しくなります」
「甘くて気持ち悪いと思うがね」
「またそういうことを」
「どうして『知恵の実』って言うんですか?」
何となくオルフィは尋ねてみた。
「それはですね。知識神メジーディスの神話に端を発していまして」
「やめとけ、こいつに何か質問するのは。三日は寝かせてもらえないぞ」
アバスターが混ぜっ返した。
「そこまでじゃないですよ、いくら何でも大げさに言いすぎです」
「大げさじゃないだろうが。俺は一度で懲りた」
「あ、あれはあなたが簡単には説明できないことを訊くから」
「相手が訊いたことを後悔してると感じたら適当に切り上げろ」
「そうは思えませんでしたよ。結構真剣な顔で、鋭い質問も投げかけてきたくせに」
「つき合ってやったんだよ」
いったいこの両雄が何について討論し合ったのだろうかとオルフィは少々興味も湧いたが、口を挟むのはやめた。下手に尋ねればラバンネルの講義が本気ではじまった上、アバスターも何だかんだ言いつつ参加しそうな気がしたのである。そうなれば三日はかからずとも、少なくとも今晩はその話題に終始するだろう。
「それじゃ話の続きをしましょうか」
ラバンネルはオクアの実の刺さった串を教鞭のように持った。
「足し引きの話でしたね。あなたは十年後、およそ三十年を『引かれる』。すると四十年後、あなたは幾つです?」
「……ん?」
「判りにくい言い方をしましたね。あなたの視点から考えましょう。簡単に言えば、『あなたの人生が三十年前からはじまったとすればあなたはいくつですか?』ということになります」
「……三十年前からはじまったなら、当然……あっ」
そこでようやくオルフィは気づいた。
「十年、足りない」
「そうなんです。私たちがかぶったのが十年になるのか、それともふたり分で二十年になるのか、そこは正直に言って判らないのですけれど、少なくとも多かった訳ではない。これでは足し引きが合いません」
「よく、判らないんだけど」
「判りませんか?」
「いや、数字の足し引きについては判ったさ。でも、そんなふうに時間を足したり引いたりなんてことが可能なのか……愚問かな」
「そうですね」
愚問ですと魔術師は言った。
「非常に端的に言って、悪魔の力、つまり人智を超えた力ですからね。人間にできないことだって可能にします」
「身も蓋もない言い方だな」
アバスターが呆れたように言った。
「仕方ないでしょう。若返りの秘法なんていうのは、古来から多くの魔術師が挑んできたものですけれど、いまだに確立されていない。もしかしたらどこかには、こっそり成功させている術師もいるかもしれませんが、そうだとしてもおそらく偶然の産物。知識でどうにかなることではないというのが協会の考えで、私自身もそう思います」
「それを悪魔は簡単にやっちまう訳か」
「簡単かどうかは知りませんが、実際、可能にしていますね」
大導師と呼ばれる男でさえ「人間には不可能だ」と判断している。そういうことだった。
「私は本来、人間の想像できることはたいてい可能だと思っているんですが」
何とも大きな台詞がやってきた。
「それを可能にするのが何であるか……魔力であったり神力であったり、或いは妖力であったり。そこまで含めてしまえば、通常の考えや、魔術的な観念においても『有り得ない』と言えることも有り得ますね」
「そいつはずるくないか?『神様なら何でもできます』みたいなもんだ」
アバスターが口を挟んだ。
「神学を学べば、神にすら制限と言えるものがあると判りますが、まあ、そのことはいいとしましょう。あなたの言う通り、人ならぬものの力を入れるなら、たいていのことはできますよ。ですが人の力でもかなりのことは可能なんです。誰でもという訳にはいきませんが」
「魔術師や神官なら?……でも」
オルフィはうつむいた。
「大導師と呼ばれるあんたにだって、たとえば」
きゅっと唇を噛む。
「人を生き返らせることなんかは、できないよな」
「そうですね」
魔術師は認めた。
「私が言うのは、『夢想』についてではないのです、ヴィレドーン君。あくまでも、理屈が判った上でという話。魔術で言うならば、術構成が整っていれば、素っ頓狂に思えることだって可能になります。ただ、あまりに高度な構成であれば、その分、魔力が必要になる」
「つまり、理屈上では可能だが魔力が足りないために実現できないことというのを『魔力があれば可能だ』と言い換える話か?」
「まあ、そうです」
「それは『不可能だ』になるんじゃないのか?」
「現状では、ということになります。魔力は生得の素質ですから鍛錬したって増えませんけれど、もしもとんでもない素質の人間が生まれれば可能になる」
「だからそれは不可能だと言うんじゃ」
ぶつぶつとアバスターは繰り返した。
「魔力でたとえるからそう思うのかもしれませんね。では、技術とすれば?」
「技術?」
オルフィが聞き返した。
「ええ。そうですね、たとえば火を起こすということ」
彼は焚き火を指した。
「火を使いたくても、古代には自在に火を操れず、発生には雷神ガラサーンの力に頼るくらいしかなかった」
「魔術」は除くとします、と魔術師は言った。太古からそうした力の持ち主はいたとされるが、やはり特殊な性質であるからだ。
「火種を保つ方法を工夫し、貴重な火を『聖なるもの』と讃えた時代もあります。やがて道具が作られても、時間や手間がかかった。いまはどうです? 火口箱などが一般的ですし、燐寸というものもありますね」
「成程、技術の進歩ってことか」
「技術が進めば何でもできるってか?」
オルフィはうなずいたが、アバスターは胡乱そうだった。
「何でもとは言いませんけれど、たいていのことは」
ラバンネルはさらりと答える。
「先ほどの話ですが、若返りや蘇生というようなことだって、もしかしたらいつの日か、人の手で可能になるかもしれません。理屈と進歩が噛み合えばということになりますし……よいことかどうかも、判りませんが」
「それはなかなか面白い議題だが――っと」
アバスターは片頬を歪めた。
「その辺はあとでもいいんじゃないか?」
「おや」
目をぱちくりとさせ、ラバンネルはこほんと咳払いをした。
「失礼。私としたことが、つい脇道に夢中に」
「何だよ」
オルフィはがくりと肩を落とした。どう話がつながるのかと思えば、つながらないらしい。
「ええと、そうそう、足りない十年の話でしたね。あなたがあれから三十年後にいたのであれば、あなたは若く見えるが三十歳近いか」
「いや、もしかしたら少しくらいは十八からずれてるとしても、三十は超してない」
ふるふるとオルフィは首を振った。
「でしょうね。となればあなたはどこかで十年強を跳んでいるということになります。しかし私は『足す』方向に力を使いはしなかった。悪魔はもともと引こうとしていたのだから、これは奇妙です」




