13 いったい、どこへ
「ところで、ラスピーシュ」
そこにあるのは穏やかで優しい、笑顔。
「お前はやはり、リチェリンのところに顔を出さない方がいいね」
「おや、何故です」
弟は目をしばたたいた。
「自分で認めたように、彼女に同情的だからだ」
「私が彼女を逃がすとでも?」
顔をしかめてラスピーシュは問うた。
「まさか。そんなことは思わないとも。ただ、リチェリンは期待するだろう。それを裏切り続けることは、お前の心に痛いだろう。お前のためだよ」
「それは」
兄が本心から言っているのか、それとも何か含みのある言葉なのか、ラスピーシュは考えるように少し黙った。
「――判りました、そのようにしましょう」
それから彼は答えた。
「もう一度言っておきますが、私は本当に、リチェリン君に恋情はありませんよ。兄上の花嫁に手を出すことはもちろん、逃がすなどということも考えていません」
「だが逃亡の手助けを考えたことはある。そうじゃないかな?」
兄は首をかしげた。
「それでもお前はウーリナを取った。覚えておくことだ」
「忘れませんよ」
息を吐いてラスピーシュは答えた。
「でもこれだけは。彼女を外に出すことを考えたのは、『逃がす』という話じゃない。我々にはエクールの神子が必要だということは、判っています」
「では、彼女をエクール湖に連れようとでも」
「お見通しですね」
ラスピーシュは天を仰いだ。
「リチェリン君に神子として目覚めてもらうなら必要なのは刺激ですよ。私はピニア殿から聞いたんだ、コルシェントと対峙した直後の彼女には神子めいた雰囲気が間々見られたと」
「ふむ」
ロズウィンドはあごに手を当てた。
「私では、かの術師より迫力が足りないかな」
「幸か不幸か逆でしょう。神子なればこそ、彼女は知ってるんです。エクール湖から離れた王族の血筋。『長老』とは異なる、真の統治者の血を」
「お前は上手に隠していたようなのに」
「兄上は、隠そうとしていないじゃないですか」
弟は少し笑った。
「約束しましょう。兄上の指示なく勝手に動くことはしませんよ。ですがここに閉じ込めるよりもエク=ヴーの気配に少しでも触れさせた方が話は早いと思いますね」
「考えておこう」
ロズウィンドは答えた。
「お前はいつでも、私の気づかないことに気づいてくれるね。感謝しているよ、ラスピーシュ」
「兄上」
「そんな顔をするものじゃない。本心だ。お前がおだてられて乗せられるような性格ではないことくらい知っているのだから」
笑って兄は言った。弟はまた少し黙った。
「いろいろと余計なことを尋ねなければよかったですな。そうすれば」
呟くように言って、ラスピーシュは肩をすくめた。
「兄上がウーリナをどんな目で見ているかも、知らずに済んだ」
「私が妹を女として抱けるかどうか見ている、とでも?」
「いいえ。それならまだましです」
彼は首を振った。
「ひとつだけ、よろしいですか」
ゆっくりとラスピーシュは片手を上げた。
「――もしも、ルアムの仇というような思いがあるのでしたら」
「仇?」
ロズウィンドは目を見開いた。
「おかしなことを言うものだな、ラスピーシュ。彼は確かの我々の恩師のひとりだ。だが王子の教師という地位を分不相応に高いものと思い込み、王妃に不貞を働こうとして職はもとより、町を追われた咎人であろうに」
「そうでしたね」
弟は肩をすくめた。
「その上、酔って高所から落ちたと。仇など存在するはずもなかったですね」
「判っているならいい」
肩をすくめてロズウィンドは言った。
「いまが好機なのだ。判るだろう、ラスピーシュ」
兄王子は西方を見た。
「待ちに待った……いや、ただ待っていてもそうそう機会はやってこない」
彼は皮肉っぽく唇を歪めた。
「三十年ほど前に起きたヴィレドーンの裏切りは、彼自身にそうした意図はなくとも、好機のひとつだった。国王と白光、漆黒位の騎士を一度に失い、ナイリアンの国力は低下した。こちらが様子をうかがっていれば何かしら手は打てたはずであるのに、我らが祖父は何もしなかった」
西――エクール湖、それともナイリアンの方を見ながら彼は続けた。
「私は、ただ待つことはしなかった。悪魔の手を借りてかの国を揺らしてはいるが、なかなか中枢を突けずにいるのが現状」
ラスピーシュは黙っていた。
「ジョリス・オードナーというのはかなりの大物だったが、湖神ならぬ神界神が彼の死を許さなかったとでも言うべきか。凶刃から生還を果たし、繰り返す苦難にもくじけず首位騎士としての任を果たそうとしている」
あれだけの人材がほしいものだと第一王子は嘯いた。
「彼の勧誘は、巧くいきそうにないのだろう」
「そうですね」
第二王子はうなずいた。
「家族を手札に揺さぶってみましたが、ふらりともしませんでした。内心では動じているのかもしれませんが、おくびにも出さない。あの調子では、たとえ目の前でサズロ殿を傷つけても、彼はナイリアンを捨てそうにない」
「それは、やってみなくては判らないと思うが」
ロズウィンドは言ってから、悪い冗談だと手を振った。
「ではジョリスのことはいい。レスダール王だ。国王は中枢ではあったが、コルシェントがしくじったために、レヴラールらに時間を与えてしまった」
コルシェントが利用するために王の死を延ばしたはずだったが、宮廷魔術師は失脚し、その予定は狂った。レスダールの意識が戻らないことはレヴラールらを案じさせたが、それでも王子が代行者として立つだけで当座は整った。死んでいればそうもいかなかっただろう。
「ヒューデア・クロセニーについては、中枢とはとても言えない。ジョリスに近い存在ではあったが、ジョリスは個人的な怒りで行動する人物ではない故、大して状況を左右することもあるまい」
ふう、とロズウィンドはいささか芝居がかって息を吐いた。キエヴの青年の名に、ラスピーシュはただ黙っていた。
「やはり、あの時点でジョリス・オードナーを殺せなかったのは痛いな」
「いくら周りが諭そうとしても、レヴラール殿が順調に暴走してくれたでしょうからね」
同意するように言ってラスピーシュも肩をすくめたが、あまり乗り気という風情ではなかった。
「失礼ですが、今日はそろそろ」
目線を落としてラスピーシュは呟くように言った。
「疲れましたので、休みたい」
「それは気づかなくてすまなかったな」
ロズウィンドは優しい兄の顔で謝罪をした。
「もちろん、いいとも。話の続きはまたにしよう、親愛なる弟よ」
「ええ……兄上」
かろうじて笑みを浮かべると第二王子は丁重な礼をして第一王子の部屋を下がった。
「……ふう」
そこで彼は息を吐くと額に手を当て、壁にもたれかかる。
「なあ……どう思う」
小さく、彼は呟いた。
「意外だったな。私は兄上に似ている。外見の話じゃない」
返事をする者はいない。
「私はリチェリン君の罪悪感を利用して、彼女の行動を操ろうとした。何のことはない、兄上から学んでいたやり方だったんだな」
くすりと彼は笑った。
「そう、彼は私の罪悪感を利用して、私の行動に制限をつける。判っていても」
そこでラスピーシュは言葉を切った。
「なあ」
誰もいない廊下で、彼は囁くように言った。
「私たちはいったい、どこへ行くんだろうな」
(第8話「絡み合う軸」第1章へつづく)




