11 どういうことか判るか
やれやれ、と青年は肩をすくめた。
「ナイリアールからスイリエへひとっ飛び。魔術師のような妖力は便利ですが、少々何と言うか」
肩の凝りをほぐすようにラスピーシュは両腕を動かした。
「べったりと何かがまとわりついたような感触がありますね。これは風呂でも落ちない」
「聖水でも浴びてみるか?」
棚に向かって何か取り出しつつ、兄王子は冗談を言った。弟王子はただ肩をすくめる。
赤い葡萄酒がふたつの玻璃杯に注がれ、彼らの前に置かれた。目上である第一王子自らの酌を受ければたいていの人間は恐縮したであろうが、兄弟の間では普通にあることだった。
人前でこそ必ず第一王子を立てるが、ロズウィンドの部屋ならロズウィンドが、ラスピーシュの部屋ならラスピーシュがもてなすのは、彼らにとってごく当たり前のことだ。このときもラスピーシュは特別な反応をせず、ごく普通の礼をして杯を受け取った。
「それで兄上は、ピニア殿をどうするおつもりで」
杯を弄びながら彼は尋ねた。
「神子の付き添いにいいだろう。本当はヒューデア青年の方が望ましかったが」
赤い液体で喉を湿らせながら、ロズウィンドが答える。
「成程。そういうことでしたか」
弟はこくりとうなずいた。
「リチェリン君はどうしてるかな?」
「静かにしているようだ。お前の脅しが効いたな」
兄王子は弟に向かって少し笑んだ。
「神子の自覚はなくとも神女見習い、自分よりも他人が傷つけられることを怖れる。彼女の気質を掴んでいたお前ならではだな」
「どうしたんです、兄上が私を褒めるなんて」
おどけたようにラスピーシュは両手を上げた。
「雪が降りますよ」
「そんなに私はお前に礼を言っていなかったか? それはすまなかった」
兄は目を見開き、謝罪の仕草をした。
「お前にはいつだって感謝しているよ、ラスピーシュ」
「感謝ですって。兄上が私に?」
「そうだとも。国元を離れられない私に代わって、いろいろと見聞を深めてきてくれるじゃないか。お前の話を聞くのはとても楽しいし、ためにもなる。もちろん、本当に見聞きするのとは違うだろうが」
にっこりとロズウィンドは言い、ラスピーシュは言葉を返さなかった。
「これからも頼むよ。お前が楽しくしていることは、本当に、私をも楽しい気持ちにさせてくれるのだから」
やはりラスピーシュは何も言わなかった。
「どうしたんだい、弟よ?」
「……いや」
ラスピーシュは首を振った。
「では酒の肴に、兄上も興味のある、エクール湖の話でもしましょうか」
「『興味』と?」
「正当な血筋にある者が、浅薄な言い方でしたか」
「いや、そうは言わないさ」
ロズウィンドは手を振った。
「事実、エクール関連の話は王家の歴史及び神事に関わることとして細々と伝わってきただけだ。父上とて」
兄王子は唇を歪めた。
「〈はじまりの地〉にはろくな『興味』を持っていなかった。それどころか、ナイリアンの動向を気にかけておくことすら無駄だなどと」
「そうでしたね」
目を伏せてラスピーシュは呟いた。
「いまが平和なんだから過去のことを蒸し返さなくてもいいじゃないか、という辺りなのでしょう」
「それもひとつの正論だ。私も否定する気はない」
しかし、と第一王子は首を振った。
「父上が本心から平和のためにそう考えていたとは思わない。『どうせナイリアンのような大国には敵わない』という卑屈な心がそう言わせていた。歴代の王もそうだ。『いつかは悲願を果たす』などと言いながら、結局何もできないままだった」
「ほとんどの王族には、力の顕現もありませんでしたからね」
口の端を上げてラスピーシュは言った。
「それが、我々の代では兄妹三人が揃って始祖の力を宿している。兄上でなくても運命だと感じますよ」
「運命」
ロズウィンドは繰り返し、肩をすくめた。
「どうなのだろうな」
「おや、天命を感じての行動かと」
「エク=ヴーは」
くすりと笑って彼は天井、それとも空を見た。
「天には、いないな」
「それもそうですな」
弟は認めた。
「では湖神はどこにいるのか……無論、エクール湖だ。いや、そうではない。いまは、いない」
兄王子は首を振った。
「これがどういうことか判るか、ラスピーシュ」
「正直に申し上げれば、あまり」
判りませんねと彼は答えた。
「何百年かに一度入るという深い眠りとは違う。いない。エク=ヴーが〈はじまりの湖〉を見捨てたとも考えられますが」
「それは考えがたいな。太古の時代からあの場所に棲み続けてきた湖神が、今更どこか違う場所へ去るとは」
「長いこといたからこの先もいる、とも限らないのでは」
控えめにラスピーシュが言えばロズウィンドは首を振った。
「〈空飛ぶ蛇〉ジェンサースの伝承を知っているか」
「ジェンサース、ですか?」
唐突な問いかけに弟は首をかしげた。
「有翼竜と並ぶ、竜族の一種ですね?」
「その通りだ。エク=ヴーはジェンサースとは違うが、近い存在」
「姿形はよく似ているらしいですね。能力や生態は異なるとされますが」
「ああ。だが、見た目以外にも似ているのではと思われる点がある」
ロズウィンドは講義でもするように言った。
「ジェンサースは〈竜珠〉と言われるものを持つ。それを手にして初めて、竜族として一人前になるのだとか」
「はあ」
何の話なのかと訝しむように、ラスピーシュは曖昧な相槌を打った。
「となればジェンサースは〈竜珠〉をこの上なく大切にする。それは彼らにとってどんな美しく高価な貢ぎ物よりも宝なのだ」
「それは判るようですが」
話がどこに行くのかと聞き手たる弟はまた首をかしげた。
「つまり」
とん、とロズウィンドは指で卓を叩いた。
「エク=ヴーにとって〈竜珠〉のような存在なのだよ。エクール湖とその畔の村……エクールの民は」
「ほう」
合点がいったとばかりに弟王子はうなずいた。
「成程。そうであれば、その地を離れることはなさそうですな」
ふむ、とラスピーシュは両腕を組んだ。
「では、死んだとは考えられませんか?」
そして弟が言えば兄は片眉を上げた。
「三十年前に神子を守れず、村の大火を許した。あの時点でエク=ヴーの力は相当弱まっていたのでは? 妖力を分散し、悪魔を駆逐したことで力を使い果たした。リチェリン君は最後の神子かもしれない。そして我々も」
「蝋燭の火が消える前に強く燃えるように、我々に力を遺したと。それがお前の考えか?」
首をかしげてロズウィンドは問うた。
「判りませんと申し上げました。いまのはただの思いつきですから」
悪びれずにラスピーシュは肩をすくめた。
「もっとも、死んでもらっていては困りますな。湖神のいない〈はじまりの地〉など、手にしても意味がないでしょう」
「ない、とは言わない。ただ湖神の力のみが目的という訳でもないからな」
祖先の悲願との思いは嘘ではないと彼は言った。
「ただ、実際問題、エク=ヴーの力なしでナイリアンを制するのは困難でしょう。だからこそ兄上はリチェリン君も必要とするのだし」
「こだわっているな?」
兄は片眉を上げた。
「何がです?」
弟も同じようにした。
「リチェリン。あの神子についてだ」




