10 お前に、罪など
カーザナ・キンロップがそこにたどり着いたとき、彼はその場の空気が変わるのを感じた。
と言ってもそれは、祭司長の姿を目にした兵士らが――侍女は彼らが休ませた――また少しほっとした顔を見せたというようなことだけでもない。
神官たる彼に魔力のことはあまり詳しく判らないが、それでも感じることはある。
ごく近くで縛られていた〈場〉が解放された、それは瞬間だった。
「成程、入れなかった者が入れるようになったか」
彼はすぐさまそれを理解した。
「近衛、続け」
短く命じてキンロップは重い扉を開き、開いたことに近衛兵は目を見開いたが、祭司長の神力だと勘違いをした。
(邪な気配はない)
(戦いの気配も)
室内は侍女が迎えないだけで普段と変わらないように見えた。もしも悪魔――或いはコルシェント、ということも考えた――がいるようであったら兵を下がらせて自分が先に立つつもりであったが、黙って兵らが行くのに任せた。何もなければ急がせることもないが、彼らにも誇りや名誉がある。責任を果たしたと感じさせるのもまた、上の者の役割だ。
「陛下」
「ジョリス様」
声に緊張感はあるが緊迫感はない。いま現在のものを見誤りはしなかったようだと思いながらキンロップもまた隣の寝室に歩を進めた。
「無事か、オードナー殿。無論、陛下も」
彼が声をかければ、王の様子を診るようにしていたジョリスは向き直り、さっと礼をした。
「陛下は」
「ご無事でいらっしゃる」
「何よりだ」
キンロップは息を吐き、それからじろりとジョリスを見た。
「全く、貴殿の無謀さにもほどがある」
祭司長は責めるように言うと、さっと何かを差し出した。ジョリスは目をしばたたく。
「よくも丸腰で、この上なく危険かもしれない場所に飛び込んだものだ」
「そう言えば」
〈白光の騎士〉は肩をすくめた。
「そうであった」
「貴殿が着の身着のままであること、近衛のみならず〈赤銅の騎士〉まで気づかぬとは」
あまりにもジョリスが堂々としていたせいであろうか。キンロップは兵を責めたのではなかったが、彼らは居心地悪そうにしていた。
「貴殿の部屋に勝手に入ったが、文句はなかろうな」
「とんでもない。お気遣いを有難く――」
ジョリスは彼自身の細剣を受け取ろうとしたが、まるで意地悪でもするように、キンロップはそれを引っ込めた。
「侵入者がおらんのならもう必要なかろう。イゼフ殿の言った時間も過ぎていく」
そこでキンロップは手を振り、近衛たちを下がらせた。
「――陛下には私がついている。城下のことはイゼフ殿らに任せろ。貴殿は宮廷医師のところへ」
「肯んじるとお思いか?」
「思わぬな。だが目の前で〈白光の騎士〉に倒れられでもすれば、民が現状以上の恐怖を抱くということは判ろう」
「だが、こうしたときのために騎士がいる」
「貴殿のほかにもおろう。信じられぬのか、彼らが」
「そのようなことは」
「貴殿の言っているのはそういうことだ」
きっぱりとキンロップは指摘した。
「動けなくなる前に医師のところへ」
「宮廷医師殿には陛下の様子を診ていただかなくては」
またしてもジョリスは首を振った。
「先ほどから、こうして横で話をしていても、目を覚まされる気配がない。魔術ということであれば医師殿では荷が重いやもしれぬが」
「魔術」
では、とキンロップは顔をしかめた。
「やはり……あやつが?」
「この目で見た。確かに、死んだとされている男だった」
「何と……貴殿まで見たと言うか」
信じがたいことだ。だがイゼフやジョリスという男たちが嘘をつくことはもとより、勘違いしたり騙されたりということもないはず。祭司長は聖印を切った。
「魔術の気配は、ないが」
祭司長は慎重にレスダールの周辺を探った。
「……む、これは」
彼は何かに気づくとジョリスに下がるよう指示した。
「香木による陣か。魔術師め、くだらぬ真似を」
寝台の周辺に置かれていた木片を拾い上げてキンロップはうなる。
「魔術師の仕業とも、限らない」
「何」
「私に話したのはほとんど、ラスピーシュ王子だ」
「何と」
またしてもキンロップは言った。言うべき言葉が出てこなかった。
「それは……つまり、ラシアッドによる、はっきりとした敵対宣言か」
「彼自身は何もはっきりしたことは言わなかった。だがリチェリン殿の拐かしを認め、ピニア殿の身の上についても脅すようなことを」
「ピニア? 占い師殿か。何故だ」
「私と関わるからだというようなことを口にしていたが」
彼は首を振った。
「それよりも、彼女もまたエクールの民ということがある。そこに関わりがあるのではないかと思う」
「エクール、またエクールか」
キンロップはうなる。
「〈はじまりの湖〉とやらに何があると?」
「判らない」
ジョリスは正直に答えた。
「だがその考察はあとだ」
「うむ」
キンロップは香木のかけらを拾い集め、一カ所にまとめると胸元から小瓶を出した。栓を開けると中身を香木にかけ、祈りの言葉を口にする。
「邪なものではない。だが念のためだ」
聖水の瓶を片づけて、彼は息を吐いた。
「う……」
「陛下。レスダール陛下」
ジョリスが落ち着いた声で王を呼んだ。
「お目覚めでいらっしゃいますか」
「ああ……ジョリス、か……」
レスダールは薄く目を開けて〈白光の騎士〉の姿を認めた。
「事実、無事であったか。夢うつつのなかで、お前が生きていたと聞かされた気がしたが……都合のよい夢であったかと」
「〈白光の騎士〉ジョリス・オードナー、御前に」
彼は最高級の敬意を表す仕草をした。
「騎士にあるまじき行動を取ったこと、謝罪で足りるとは思っておりませぬ。どうか陛下から、厳重なる処罰を」
「馬鹿なことを」
レスダールもまたレヴラールと同じことを言った。
「お前に、罪など」
レスダールは首を振った。
「お前の言葉に耳を貸さなかった余にこそ咎がある。お前は国を守ろうとして――」
ナイリアン国王が話したのは、そこまでだった。
ぶしゅう、と大きな風船から不様に空気が抜けるような音がした。
それはレスダールの腹部から大量に血が噴き出した音だった。
「――祭司長!」
「な、何だ、これは」
これが「邪ではない」などということは有り得なかっただろう。
まるで獣が腹をえぐったかのような、その痕跡。だが獣はいない。魔物も。
「く……判らん、どこから、何が発されたのか」
キンロップは歯がみした。
「国王陛下……」
生死を確かめるまでもなかった。
レスダールが絶命していることはあまりにも明らかすぎた。
「何のために、私は」
ジョリスはぐっと拳を握った。
魔術か、妖術か。何であろうとも。
そうした力を持たぬ者には決して対抗できぬ攻撃が行われたのであったとしても。
ナイリアンの騎士がすぐ脇にいて、国王の暗殺を許すとは――。
「何のために私は、この場に!」
国中に英雄と称えられる男の、無力感に苛まれた叫びが、部屋に虚しく木霊した。




