02 実に悪いことをした
どんなに明るく振る舞おうとしても、不意に訪れる暗闇は制御しきれない。
占い師ピニアは少しずつ仕事を増やそうと――元に戻そうとするつもりでいた。コルシェントの呪縛から逃れるためにも、何かに打ち込む必要があった。
だが、心とは裏腹にそれは巧くいかない。
明かりを遮断した薄暗い部屋にいると、前触れもなく恐怖が降ってくることがある。
そうなると目前の人物の星を読むどころではない。呼吸を苦しくして胸を押さえ、それが通り過ぎるのを待つばかりだ。
そんな様子を見れば、訪問者は自らの未来に怖ろしいこと起こるものと誤解しよう。そうした危惧を覚えない者であれば、ピニアは〈物の怪憑き〉になったとでも噂を。
自分の評判を落とせないと思うのは自身の名誉のためではない。王家の名誉というのも的外れだ。言うなれば「王家も含めて」ではある。
彼女は、これまで彼女の占いを頼ってきた全ての者に対して責任があると考えていた。彼らの運命に「〈物の怪憑き〉の予言に惑わされた愚者」などという一行を書き込ませることはできない。
慎重にしなければならなかった。少しでも調子が悪いと感じたら、絶対に無理をしてはならない。たとえ待っている客を帰すことになっても。
そうした日々であったから、元通りにはほど遠かった。
ましてやいまは、異なる不安もある。
ヒューデア。リチェリン。彼女の館を出て行ったふたりのこと。
その後、彼らに起きたことについての詳細は、ピニアのところに届いていなかった――怖ろしい死についてはもとより、拐かしのことも――が、何かが起きたこと、〈星読み〉の力を持つ占い師には判っていた。
だが何が起きたのかまでは判らない。
ただ彼女は、ヒューデアとリチェリンのことが心配だった。
殊に、ヒューデアだ。リチェリンにはヒューデアのみならず守りがあるが、守り人のことは誰が守る?
そのことを考えると、どす黒い不安のようなものが頭をもたげる。
この「感じ」はいったい何なのか。
自分はキエヴ族の青年の星を読んでいるのか。それともただ、知人の安否を気遣っているだけなのか。
以前にはそうした区別がきちんとできていた。いまは駄目だ。コルシェントに乱され、強制されて以来、彼女は自分の恐怖と星の告げることの境目を見極められなくなっていた。
とんとんと礼儀正しく扉が叩かれ、ピニアははっと顔を上げた。
「ヒューデア殿?」
何故その名が出たのか判らない。彼が留守にしていることは承知だ。
もとよりあの青年はまるで騎士のようだ。この館に初めてやってきたときこそ強引だったが、護衛のためにここに住まうようになってからは、ただ彼女を訪問するときでさえ使用人を先触れにすることがほとんどだ。だから直接ヒューデアがやってくるというのはまずないことだった。
ピニアとて知っている。だが出た。ヒューデア・クロセニーの名が自然と。
「失礼いたします」
やってきたのは案の定使用人のひとりで、いつものように丁寧に頭を下げた。
「ウレソム殿がお見えです」
「あら、もうそんな時刻」
それは〈星読み〉を約束していた商人だ。先日、体調のために依頼を断ったのだが、怒りも不満も見せずに次の約束と見舞いまでくれた人物である。彼の頼みは今度こそきちんと遂行しなければならないと感じていた。
「判ったわ。部屋にお通しして、すぐに伺いますと伝えて」
「はい」
使用人は下がり、ピニアは呼吸を整えた。
(――大丈夫)
彼女は胸に手を当て、自らに告げた。
(今日はずっと調子がいいわ。大丈夫。あの嫌な感じはやってこない)
(やってこない)
それは自身に言い聞かせているとも言えた。
言葉による誓い。または呪い。これらは表裏一体だ。
「私は、大丈夫」
声に出して彼女は言った。
「それはよかった」
誰かが返した。ピニアはびくっとする。
「だ、誰っ」
こんなふうに――前触れもなく彼女の部屋に現れる人物がいた。だがあの男はもういないはず。
そのはずだ。
「驚かせてしまったことをお詫びしよう。いやそれ以前に、ご婦人の部屋に勝手に入り込んだことを謝罪しなくてはならないようだ」
丁重な礼をしてそんなことを言った人物は、ピニアにも見覚えがあった。
いや、そうではない。彼女は彼を知らない。だが、よく似た人物を知っている。
「あなたは……ラスピーシュ殿下の……」
目の前の青年とラスピーシュに血縁関係があるのは明らかだった。とっさに兄弟と思い、ラスピーシュの兄が何者であるかに思い至ったピニアは驚きに目を見開く。
「ロズウィンド……殿下……?」
思いがけない相手、と言ってよかっただろう。ラスピーシュとならばウーリナの茶席で話をしたが、それとてかの王子が話すのは主に妹王女かリチェリンであって、ピニアには礼儀を失さない程度に声をかけていただけだ。
彼女に酷い自惚れの気質でもあれば、ラスピーシュが密かにピニアを気に入って兄王子に紹介したとでも思っただろうか。
だがもちろん彼女はそんなことを思わず、もちろんロズウィンドとて身分やラルにものを言わせて使用人を丸め込んだりしたのではなかった。
そしてこれまたもちろん――生憎なことに、と言うのか――ピニアを愛人にとでも考えたのでもなかった。
そうした気持ちを抱いていたのは、とある魔術師。
死んだはずの、魔術師だった。
「あ……!」
心臓が痛いほどに鼓動を跳ね上げた。息が詰まる。視界が強烈に歪んだのは、まるで、目の前にあるものを見まいとするかのようだった。
「な……何故、そんな……!」
「おや、危ない」
ロズウィンドはさっと近寄り、ふらつく彼女を支えた。
「ずいぶん驚かれたようだ。まあ、無理もない。貴女は、この男が死んだと聞かされていたのだから」
彼は首を振った。
「ただ『耳にした』というだけでもない。紛れもない事実であること、貴女にはよく判ったはずだ。彼の強制力が消えたというのは、死体をその目で見るよりもはっきりと、貴女にその死を教えただろうから」
だが、とラシアッド王子は肩をすくめた。
「時には死者も蘇る」
リヤン・コルシェントはその脇で、じっとピニアを見つめていた。
彼女は気が遠くなりそうだった。
もう訪れないはずだった悪夢が突然、彼女の目の前に再び舞い降りたのだ。
「ピニア……」
乾いたような声が発される。ピニアの全身に粟が立った。
だが、蘇ったのは彼女自身の恐怖だけではない。
確信できた。この瞬間。
先ほどから覚えていた、怖ろしい黒い予感。
間違いなく――彼女は星の声を聞いていたのだ。
「あなたたちが」
彼女の声はかすれた。
「ヒューデア……殿を……」
幸いにしてと言うのか、彼女がその「光景」を明瞭に視て取ることはなかった。しかし、星はそのとき彼女に告げた。ヒューデア・クロセニーという、誠実で生真面目な青年の凄惨なる死のことを。
「ほう、これはすごい」
ロズウィンドは前髪をかき上げた。
「成程、これが本物の占い師か。それとも、湖神の神秘が絡むと見てもよいな。キエヴとエクールの関わりを考えれば、ただの知人ではなく『アミツを見る者』に起きたこととして把握することも有り得る。なかなか興味深いところだ」
彼は両腕を組んだ。
「ロズウィンド、殿下。あなたは、いったい」
ヒューデアの死と関わる。何故、ラスピーシュの兄であるこの人物が。
「私か? ご存知の通り、ラシアッドの第一王子。いまはナイリアンの協力者だ」
優しく笑んで彼は言い放った。
「協力者」
ピニアとて、そう思っていた。ラシアッドはナイリアンの友好国であると、先ほどまでは。
しかし、いまや冗談でもそのようなことの言えようか。
死んだはずの謀反人を連れ、アミツを見る者を――。
「ヒューデア殿……」
きゅっと胸が痛んだ。これは怒り、それとも哀しみ。
「おや、貴女は〈白光の騎士〉に夢中という話だったが、クロセニーに気を移すところでもあったか。だとしたら実に悪いことをした。時間をかければ貴女方は幸せになったかもしれないのだから」
気の毒そうな表情は演技に見えないが――演技だ。
「そのように怖れずともよい、私がついている以上、貴女に無体な真似はさせない。ただ、死の間際まで君のことを想っていた男にもう少しだけ優しく微笑んでやってくれてもよいのではないかな?」
まるで友人の恋を応援するお節介男のように、青年は気軽に言った。だがそれは彼女にとってぞっとするような知らせだった。彼女を魔力によって支配し、従えた男にあったのが色欲だけではなかったなど、知りたくもなかった。
「おやおや、顔色がますます悪くなったようだ、占い師殿」
驚いたような口調は実に自然だったが、この男が全て判って言っていることを思えば、空々しいことこの上なかった。
「お仕事は控えて、少し休まれた方がいい。何、心配は要らない」
ぱちんと彼は指を弾いた。
「術師殿がずっと、貴女についていて下さるそうだ」




