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アバスターの継承者  作者: 一枝 唯
第7話 迫りくる網 第3章

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08 覚えてらんないんだもん

 リチェリンが逃げ出せば誰かが責任を負わされ、処罰される――というラスピーシュの脅しは、心優しい娘の行動を縛った。

 実際に試みたところで、巧く逃げ出せるとは限らない。冷静に考えれば難しいだろう。だがあの脅しがなければリチェリンは、たとえ無駄でも努力を続けるつもりだった。

 しかしいまとなってはそうも行かない。リチェリンの身体は拘束されておらず、部屋の扉にはどうやら施錠すらされなくなかったが、彼女の心の方はあの脅しに縛られて鍵をかけられていた。

 同じことを繰り返しているとも言えただろう。コルシェントに脅され、自分自身よりもオルフィを案じて、結果的にはオルフィを危ない目に遭わせた。

 だがいまの彼女に何ができる? 見知らぬ人間なら犠牲にしてもかまわないとは、神女見習いにはどうしても思えなかった。

 いまのリチェリンには、日がな一日、高く小さい窓を眺めているしかない。ラスピーシュが「退屈だろうから」と書籍を何冊か差し入れていたが――当人がやってきたのではなく、使用人に託されたものだ――手に取ってみても読む気が起きない。

(オルフィ……)

 心配で胸が張り裂けそうだ。もしかしたらオルフィにも同じ思いをさせているのかもしれないと思うといつまでも虜囚ではいられないのだが、できることが思いつかなかった。

 高い位置にある窓は、まるで手の届かない希望。

 射し込む明るい光は暖かそうで、気持ちを落ち着かせてくれる。だがその日のもとに自由に出て行くことはできない。

 ただ、眺めるだけ。

 眺めるだけ――。

「あら?」

 彼女は目をしばたたいた。窓の外を何かが横切った。

(誰か、通ったのかしら?)

 しかしその考えには違和感があった。と言うのも「人」ではなかったようだからだ。

 通り過ぎた「何か」は少し行ったあとで、再び戻ってきた。思わずリチェリンは、しらばくぶりの笑みをその顔に浮かべた。

「まあ、可愛い」

 不思議なものを見つけたと思うかのようにそこからのぞき込んでいたのは、一匹の、黒猫だった。

(つらいときこそ笑顔を)

 そこで思い出したのがタルーの教えだった。

(私、すっかり忘れていたわ)

 先ほどまでは、たとえ思い出して実行しようとしても引きつったような笑顔にしかならなかっただろう。

(いけないいけない)

(自分の状況を嘆いていても何にもならない。たとえ打開策が見つからなくても、哀しい顔ばかりしていては、駄目)

 にゃあ、とかすかな鳴き声がする。爪が小さな硝子をひっかいた。だがもちろん、その小さな窓が開くことはない。

「入ってきたいの? でも駄目よ、ここに入ってきたら」

 彼女は首を振った。

「出られなく、なってしまうわ」

 にゃあ、と猫はまた鳴いた。まるで返事をしたかのようだったが、生憎とリチェリンにはその内容は理解できなかった。

 少なくとも猫はいつまでも小さい窓で遊んでいることなく、とっとっと優雅な足取りで去って行った。リチェリンは残念な気持ちでそれを見送った。

 それからしばらく、彼女は全く読む気のない書物を開いては閉じ、考えごとをしては首を振り、もう一度最初から考え直し――と益のない時間を送った。

 ふと、彼女は顔を上げる。

 かすかに、何か聞こえた。そう思った。リチェリンは、どこから何が聞こえたものかと辺りを見回した。

 もちろん室内には誰もおらず、落ちるようなものもない。空耳だったろうかと彼女は再び、気乗りしないながらも書物に視線を落とし――。

「あら」

 確かにもう一度、聞いた。

 とっさに見たのは上方の窓であったが、そこにその姿はなく、そこから聞こえたという気もしない。

 聞こえたのは。

「こっち、よね」

 立ち上がると彼女は躊躇いがちに扉へ向かい、そっと取っ手を回した。

 鍵はかけられていない。

 かちゃりと戸は開いた。そこには。

「にゃあ」

 一匹の、黒猫が。

「お前……さっきの?」

 リチェリンはつい尋ねるように呟いた。

「にゃあ」

 それは肯定だか否定だか判らない。もちろん、返事をしたと考えるのも奇妙な話というものだ。

「あら」

 黒猫は彼女の足元を抜け――すりっとその身体を撫でつけながら――部屋に入り込んだ。

「駄目よ……ううん、別に、いいのかしら」

(部屋に猫を入れてはならない、とは言われなかったわよね)

 リチェリンは少し挑戦的にそんなことを考えると、猫の訪問を受けることにした。

「本当にさっきの子? どうやって入ってきたのかしら」

 話しかけるようにするものの答えはないはずだと判っている「半独り言」を口にする。

「それともお前はここの子なの? 使用人に飼われている?」

 返事はない。あるはずがない。

「ふふっ」

 リチェリンは笑みを洩らした。何だか少しだけ心が晴れるようだ。

 猫は尻尾をぴんと立て、好奇心旺盛な様子で部屋を探索している。

「食べ物でもあればよかったのだけれど、いまは何もないわ」

 彼女は半独り言を続けた。

「猫ちゃん。名前は何て言うのかしらね」

「ジラング」

 すると、返事が、あった。

「……え?」

「だから、ジラング。あんまり可愛い名前じゃないけど、文句言えるようになる前に慣れちゃった」

 黒髪の少女は顔をかき上げた。

「え……」

 リチェリンはまだ起きたことを把握できずにいた。いや、それが普通ではあるだろう。

「あんたがリチェリンよね?」

「え……ええ」

「よかった。あのね、一度だけ言うからよく覚えて」

「あ、あの……?」

 猫は、もういない。リチェリンはまだ把握できなかった。

「明日の正午。合図があるから。そうしたらこの部屋を出て」

「えっ」

「右に行って、突き当たって、左に行って、三番目の扉のなかで待ってて」

「ちょ、ちょっと。何? 何なの?」

「何って、こっから出たいでしょ?」

 ジラングは肩をすくめた。

「それとも、みんながそう思ってんのは勘違い? ここの王子の嫁になって暮らすつもり? 大事にはしてくれるんだろうけど」

「なっ、どうしてそんなことまで」

「あ、嫁になるつもりなんだ」

「そうじゃないわよ!」

 混乱しながらリチェリンは叫ぶように言った。

「あなたは誰?『みんな』っていうのは? それに、いま、猫が」

「どうでもいいじゃん、そんなの」

 ひらひらとジラングは手を振った。

「あたし、説明とか面倒臭いし。どうしてもってんならあとでシレキに訊いて」

「シレキ……さん」

 覚えのある名前にほっとした。

「シレキさんのお知り合いなのね。シレキさんが私を助けようとしてくれているの?」

「そうなんじゃない? よく知らないけど」

 何とも気のない様子で、ジラング。

「オルフィは? オルフィのことは、何か知らないかしら?」

「誰それ」

「行方が、判らないと言うの」

「知らないってば」

「……そう」

「あんたねえ」

 ジラングは両手を腰に当てた。

「自分の心配をしなさいよ、自分の! 全く、シレキと言いあんたと言い、人のことばっか! 自分が安全で安心できる場所にいるときなら、考えてもいいけどさあ」

「どうしたの?」

「は?」

「だから、シレキさん。何かあったの?」

「あー……えっと、それはね」

 ジラングは明らかに「しまった」という顔をした。

「何でもないない。だいじょぶだいじょぶ。問題なーんにもないから」

 それからけらけらと笑って言うが、リチェリンにはとてもそうは思えなかった。だがここで追及しても答えはやってきそうにないとも感じる。

「明日の、正午と言ったわね」

「ん、確かそのはず」

「えっ?」

「あんまし、ひとつのこと長く覚えてらんないんだもん。あたしが興味のあることなら別だけどさ」

(だから「一度だけ」だったのかしら)

 もしかしたら必死に覚えてきてくれたのだろうか、と思うと有難いような申し訳ないような気持ちになる。彼女のそんな心情をシレキが聞けば笑っただろうが。

「私を逃がしてくれるという話なのね?」

「ほかにどう聞こえた?」

 そんな返答でジラングは認めた。

「でも、私は、逃げる訳にはいかないわ」

 リチェリンは首を振った。

「私が逃げ出せば、誰かが罰せられる」

「そんなのどうでもいい」

 黒猫娘はあっさりと手を振った。

「どうでもよくはないわ。いくら知らない人であっても」

「大丈夫よ。それどころじゃなくなるって」

 ジラングはにやりとした。それは何だか、ずいぶんと悪そうに見えた。

「罰を受けるどころか、その人はむしろ褒められるかもしれないし」


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