07 この日々のために
きっかけは、何だったろうか。
ラシアッド国第一王子たるロズウィンドは、たまにそうしたことを考えた。
考えてみれば、答えは明瞭でもあった。
ルアム。彼は年の離れた兄のような存在だった。つき合いは短かったとも言えるが、ルアムとの出会いがなければ、ロズウィンドは歴代の王と同じように〈はじまりの地〉が他国のものであることを意識しないようにしながらラシアッドの統治をしたかもしれなかった。
あれはもう十五年以上前のこと。
それまで「王子殿下の教師」となれば、その言葉から想像される通りのしかめ面をした老人ばかりだったから、ある日突然二十歳そこそこの彼が現れたことに十歳程度のロズウィンド少年は驚いたものだ。
『初めまして』
「――初めまして、我らがラシアッドの王子様。成程、近くで見るとますます聡明さがうかがえる。……おっと、こんな言い方は失礼なのかな」
「あなたは」
取りようによっては不敬とも取れる言いようを少年王子は咎めず、ただ問うた。
「新任の歴史教師だよ」
青年はそう答えた。
「ルアムと言うんだ」
そう名乗った歴史の新しい教師は、これまでの師が急病を得て天に召されてしまい、その弟子であった彼に急遽〈ララウの花が植えられた〉のだと、少し冗談めかして――そのたとえは通常、不吉なことや厄介ごとに巻き込まれたときに使うからだ――告げた。
最初は、いくらか堅苦しかった。しかしすぐに打ち解けるようになったのは、ルアムの人柄だったろう。彼は「第一王子殿下」に臆することも、必要以上に権威づけて振る舞うこともせず、近所の子供にでも教えるように彼に接したものだ。
もちろんその内容は細かく多岐に渡って、「近所の子供」には理解できないようなものだった。
主には――祖先が西から追われてきた理由。
この頃のラシアッドでは、そのことはあまり声高に語られなかった。知っている者は知っているという程度で、多くの者はせいぜい「ナイリアンの方からきたらしい」くらいの認識だった。
しかし王族はそうもいかない。
「蛮族」に追われてこの地へたどり着き、そこを平定するまでの苦難の歴史をロズウィンドは十歳そこそこの頃から学んだ。
「かつての王様方は、〈はじまりの地〉を取り戻す願いを決して忘れず、日々祈りを捧げたものだ。ここ数代はそうしたやり方は古臭いとされる。いつまでも過去にこだわっていては前進がないという訳だ」
彼は肩をすくめた。
「いくらこの地を平定し、国の体裁を成したところで、ラシアッドは小国。隣国たちが領地としなかったような荒れ地の隙間にかろうじて入り込んだだけで、国土を広げたかったら戦を仕掛けてぶんどるしかない」
しかし真っ向から戦をしたところで負けるに決まっている。そんな愚かな真似をするよりは現状を維持し、平和を保つことが大事だという風潮に変わってきているとルアムは話した。
「選択肢のひとつではある。だがもったいない。君の」
と、彼はロズウィンドの胸をとんと叩いた。
「身体に流れているのは本来、いまナイリアンと呼ばれる国、我々から〈はじまりの地〉を掠め取った蛮族連中が恥ずかしげもなく支配する土地に君臨するべき、正統なる王の血筋なのに」
そんなことを言われても、初めはぴんとこなかった。
「はは、実感がないか。全く、俺の師匠は何を教えていたんだろうね? まあ、仕方ないか。王陛下の指示だったんだろう」
彼は肩をすくめた。
「いまの王陛下にはナイリアンに牙を剥く気概がない。……俺がこんなことを言ったのは、内緒だよ?」
驚かされることばかりだった。祖先の話も。国王への遠慮ない批判も。
勉強の合間にルアムは、教師らしからぬこともした。彼を街へ連れ出すようなことだ。
もっとも悪い遊びを教えるようなことはさすがになく、実際には彼は見聞を広めることができたと言えた。少々罪悪感を抱いたものだが、楽しんでもいた。
ルアムは優秀な教師で、いい兄貴分で、そして彼を極端に王子扱いしない、貴重な友人だった。
ロズウィンドもそつがなかったから、彼の「教師らしからぬ」部分はもとより、個人的に親しい様子も巧妙に隠した。それでなくとも若いルアムを危ぶむ声はあったのだ。
当然の流れと言うのかラスピーシュもまた彼に懐き、ルアムは勉学と追従ばかりの味気ない日々に輝く太陽のような存在となっていった。
エクールの歴史はほとんどルアムから教わった。それまでの教師が明確にしなかった、〈はじまりの地〉を追われるまでの栄光も。「蛮族」の残虐非道も。苦難の歴史も。いつか必ず、彼らは返り咲くべきだということも。
子供心にも、夢想に思えた。
強国ナイリアンからどうやって土地を取り返すと言うのか。
具体的な手段についてルアムは語らなかった。夢想だと判っていたのかもしれない。
だが、話をした。いろいろな話を。時には歴史学の枠を離れ、神学に近いようなことも。
影響は、あっただろう。大いに。
しかし学べば学ぶほど、その夢想を現実のものにしなくてはならないという義務感もまた、次第に生じていった。
その充実した日々が失われたのは、突然のことだった。
ルアムが、王子たちの教師であるという特権を利用して、こともあろうに王妃に近づくと不埒な真似をしようとした――というのである。
彼がそのようなことをするはずはないと思った。何かの間違いだと。
本来ならば処刑されてもおかしくないような罪であったが、ロズウィンドはかろうじてそれだけは避けさせた。と言ってもその後、話をする機会もないまま、ルアムは追放となった。
住居も仕事も、地位も名誉も、何もかもなくして荒れたルアムは、それからひと月と経たない内、酔った挙句に高所から足を滑らせて転落死した。
ロズウィンドの少年時代は、そうしてはっきりと幕を下ろした。
それは、きっかけだった。
ルアムという男が、意図しようと無意識であろうと、若き王子にこの道を示した。
それから彼は、この日々のために邁進してきた。
真の歴史を取り戻し、エクールの民を解放するため。
「――いらっしゃるのですか」
クロシアの問いかけに、ロズウィンドは追憶を断ち切った。
「ああ」
笑みを浮かべて、彼はうなずいた。
「ラスピーシュに任せておいても充分だろうが、一度くらいは私も足を運んでおかないとな」
彼は西方を見やった。
「昨夜はご苦労だった」
「いえ」
ノイ・クロシアは目を伏せた。
「力が足りませんでした」
「説得しきれなかったことを言っているのか。だが充分だ。疑念を持たせることができただけでも」
王子は鷹揚に言った。
「キエヴ族は我々の同胞だ。湖から離れて生き延びた、という点においても殊に近い。過去の多くを忘れたようだが、おそらく指導者たるべき人物が失われたせいだろう。おめおめと生き延びたことを恥に思ってエクールの名を捨てたなどということもありそうだ」
彼のこれは推測に過ぎなかったが、実際、「北の民族」にエクールの名は伝わっていなかった。
「それでもアミツが彼らに残り、心根は似通った。血筋も残った」
すっとロズウィンドはクロシアを見た。
「クロスの子孫同士が争うことは避けたい」
「有難きご配慮」
その言葉は表面上ではなく心から発された。
「我々一族は、ロズウィンド様にご恩を覚えております」
男は深く礼をした。
「死んだ父も、昨今の情勢を危ぶんでおりました。下々の脆弱な平和主義者が言うのであればまだしも、王家が率先して、仇を忘れようなどとは」
「代々仕えてくれたクロシア一族をも裏切る行為だな」
王子は手を振った。
「案ずるな。私は約束通り、我らが持つべき栄光を我らの手に納めてみせる」
「生涯、お仕えいたします」
「頼もしい」
ロズウィンドは笑みを見せた。いつもの穏やかで控えめな感じとは少し違う、それは晴れやかなものだった。
「ヒューデア・クロセニー。クロスの血筋というだけではない、アミツを見る者であれば有用でもある。なるべくこちらに引き込みたいが」
少し眉根をひそめて彼は続けた。
「もしも、どうしてもナイリアンにつくと言うようであれば、仕方がないだろうな」
敵対するくらいであればいっそ――という、それは宣言でもあった。




