01 もっとあとだったような
何の話を――していたのだったか。
『できるんだよ。僕には』
『君のつらい過去を「なかったこと」に』
これは誰の、声だったか。
何だか耳がぼんやりしている。よく聞こえない。
『教えてあげようね』
優しいふりで、何かが言う。
『君は僕のものになるはずだったんだ』
『――君は僕のものに』
含み笑いをした声が急速に遠ざかっていく。まるで金縛りが解けたように、彼ははっとして目を開けた。
「おはよう、起きたのか」
声がした。現実の声だ。
だがまだどこかぼんやりとしている。
これは、誰の声。
「朝の訓練にやってこなかったから様子を見にきたんだが、まだ寝ていたとは。もしや体調でも悪いのか?」
「ああ……いや……」
ぼうっとしながら彼は身を起こした。
「ここは……」
「寝ぼけているのか? まさか深酒などしたのではないだろうな」
「いや、酒なんて」
彼は首を振った。
「……何だか……」
「どうした」
「妙な夢を見ていた、気がする」
彼はふうっと息を吐いた。
「どうしたんだ、ヴィレドーン」
そう呼びかけられた。
「俺は」
彼は言おうとした。違うと。確かにかつてそう名乗っていたことは否定しないが、いまの自分には別の名があるのだと。
「俺の名は……」
「ヴィレドーン・セスタス。知っているとも」
笑うような声。
「やはり、寝ぼけているのだな。でももう目を覚ますんだ。訓練の時間はとっくに過ぎた」
「訓練……」
「そうさ。約束したろう?――ふたりでナイリアンの騎士になろうと」
「ふたりで……?」
視界がはっきりしてくる。誰かが彼を覗き込んでいる。
「な」
彼は飛び上がった。
「ファロー!」
それは三十年前に死んだ――彼が殺した男であると見えた。
「どうしたんだ」
ファローは苦笑した。
「幽霊でも見たような顔をして」
「お前……」
(夢?)
(いや、違う)
死んだ――殺した友人の夢ならば何度も繰り返し見た。実際に起きたことも、ただの幻想も、繰り返し。
平和な時代に笑い合っていた夢。口論をしたときの夢。彼を手にかけた瞬間の夢も。ファローは死んでなどいなかったという、いちばんつらい夢も。
繰り返し繰り返す内に、夢を見ていると判るようになった。それでも夢は痛い記憶をなぞり、苦しい夜を送り続けた。
だからこそ判る。これは、夢ではない。このファローは眠りの神パイ・ザレンが作り出したものではなく、実際にいま、彼の前に存在している。
(おかしい)
彼は違和感を覚えた。
そう思うのは、ファローが死んだはずだからというのでは、ない。
(これはファローだ、間違いない)
(しかし)
ファロー・サンディット。
サンディット家の「お坊っちゃん」だが意外といい奴で、ヴィレドーンは十代の内に彼と知り会ってすぐに親しくなった。
ナイリアンの騎士という道を初めて考えてみたのも、ファローの影響だった。
記憶はまるで台本でも読むように彼の頭に蘇った。いや――。
(……そうだったろうか?)
(ファローと知り合ったのは……もっとあとだったような気がする)
(え?)
彼は自分の考えに目をぱちくりとさせた。
(何を考えているんだ? 俺は)
「あとだったような気がする」。そんな奇妙な考え方があるだろうか。
過去のことを思い返しているのでも――あるまいし。
(ちょ、ちょっと待て)
(俺は)
記憶が混乱した。
(俺は、誰だ?)
ヴィレドーン・セスタス。
それとも――アイーグのオルフィ。
(そうだ)
彼は首を振った。
(これは、おかしい)
「オルフィ」――「いまの彼」は、十八歳だ。だがファローはヴィレドーンよりも年上で。
(生きているとしたら五十を超して……)
(待て待て待て)
頭が混乱した。
(落ち着いて考えろ。ファローが)
(生きているはずがない)
殺したのだ。ほかでもない彼が。あのあと奇跡的に助かったというようなこともない。〈漆黒の騎士〉は国王と〈白光の騎士〉を殺して、裏切りの騎士と呼ばれるようになった。
だいたい、ファローが「いまの彼」と同年代であるはずが。
「様子がおかしいな。熱でもあるのか」
二十歳を回ったくらいだろうか、若いファローが手を伸ばし、彼の額に触れて熱を計るようにした。
(温かい)
生身の感触。夢であるとはやはり思えない。
「そうでもなさそうだ。だが体調が悪いなら無理はしないで休んだ方がいい。騎士であれば多少の体調不良は押してもやるべきことがあるかもしれないが、幸か不幸か、いまの僕らにはまだない」
(騎士であれば)
(まだ、ない)
何だろうか、と彼は思った。
とてつもない違和感。何かが間違っている。
でも、何が?
「なあ……ファロー」
彼は少し年上の友人をじっと見た。
「俺たちは、この年齢のとき、もう会ってたか?」
「何を言ってるんだ」
ファローは笑った。
「やはり寝ぼけているのか。冷たい水でも飲むといい。それとも荒療治で、頭からかぶってみるか?」
「真面目な話なんだ、ファロー」
ヴィレドーンは友を見た。
「俺が……お前に初めて会ったのは、もっとあとだったはずだ。十八の頃は、まだ必死で軍兵の訓練をしていた」
そうだ、と彼は思い出していた。
(二十歳を超したら小隊長になってもらうと、中隊長からそんなふうに言われたっけ。あんまり若いと熟練の兵士たちが嫌がるから、と)
(そうだ、十八歳の俺はまだ小隊長にもなっていない。訓練と勉学の両方に励んではいたが、騎士になろうなんて……なれるなんてまだ思ってもいなくて)
(まだ)
(ファロー・サンディットのことも知らなかった)
「何をぶつぶつと言っているんだ、ヴィレドーン」
のちに〈白光の騎士〉となるはずの若者は顔をしかめた。彼の知るファローが持っていた白い柄の細剣は、まだその左腰にない。
「熱はないようだが、疲れがたまっているのかもしれない。『水をかぶれ』というのは冗談だ、ゆっくり休んだらいい」
「そうじゃない。聞いてくれ、ファロー」
彼は心配そうな友の顔を凝視した。
「……会いたかった。もう一度話したかった。謝ったところで何にもならないと……知っては、いるんだが」
「ヴィレドーン?」
「ファロー」
何を言ったらいいのか。言いたいことは、何だったのか。
だが、奇妙だ。ここはどこなのか。いまはいつなのか。
このファローはやがて、やはり彼に殺されるのか――?
「気を……つけろ」
考えが何もまとまらない内に、出てきた言葉はそれだった。
「将来、お前が白光位に就いたなら。漆黒位の騎士に……気をつけろ」
何て酷い忠告だ。彼は自分で歯がみした。
こんな台詞にまともに耳を傾ける人間などいるはずもない。
「何を言っているんだ、本当に」
ファローは困惑した顔を見せた。
「本当に心配になってきた。お医者様を呼ぼうか」
冗談を言っている風情ではない。確かに、心配にもなるだろう。
(すごく)
(妙な気分だ)
(これはファロー。間違いない)
(俺の知らない、二十歳を少し回った頃のファロー)
(ヴィレドーンを知らないはずの)
(夢でも幻でもない)
(本当のファローだ)
(だが同時に)
(俺の知るファローとは違う)
ぐるぐると思考は同じところをたどった。
それがどういうことであるのか、オルフィにせよヴィレドーンにせよ、明瞭に理解したとは言い難い。それはよく学んだ魔術師にも難しい概念であったからだ。
しかし彼は感覚で把握した。
これは彼が通らなかったもうひとつの過去。
通り得た可能性。
過去に「もしもこうだったら」などと言ってみても意味がない。何の役にも立たない。起きたことは起きたし、起きなかったことは起きなかったのだ。
だが――。
(ここに、ある)
(通らなかった――)
(俺の会わなかったファローと)
(ちょっとした歯車の差で、もっと早く彼と会っていたかもしれない俺)
ふふっと笑い声が聞こえたようだった。
その瞬間、時間がとまった。そんなふうに感じられた。
世界はふっと霞みがかり、ファローの姿も薄れたかのように。
(その通り。君たちがいちばん早く出会える点はこの少し前、君が十八になる直前だった。前回はそこを素通りしてしまった君だけれど、やり直しだもの、親友ともっと早く出会っておくのもいいだろう?)
「やり、直し」
彼は呟く。
「まさか、本当に」
(ふふっ、もう気づいているくせに)
彼の頭のなかで悪魔が笑う。
(君がラバンネルと勝手に取り戻した十八年は、生憎、もう僕にもどうしようもない。でもこのあと、もう一度「ヴィレドーン」をやり直したらいい。神子メルエラが死なず、ファロー・サンディットが生き延び、裏切りの騎士は生まれず、エクール湖に何も起こらない道を進んで)
「もう一度……」
(ヴィレドーンが裏切りの騎士とならなければ、アバスターの籠手が王城に残されることもない。ジョリス・オードナーは籠手を持ち出さず、カナト少年が南西部を出ることもない)
声は耳元で囁くかのようだった。
(こうすれば)
(誰も)
(ダレモキズツカナイヨ)
ずきん、と胸が痛くなる。
誰も――傷つかない。
「ヴィレドーン?」
心配そうな、友の声。
三十年前に死んだ。
いや、違う。
それはここから見れば未来だ。
まだその日はきていない。まだ。選べる。彼には。いまの彼なら。その日がこないようにと。
変わるようにと。
未来が――それとも過去が?
「ファロー」
懐かしい友の名。慕わしい気持ちでこの名を呼ぶことなどもうないと思っていた。
できないと。
彼にはその資格がないと。
「俺は」
『おいで、ヴィレドーン』
『君のための未来を用意してあげる』




