08 無念は、どこへ
彼はナイリアン国を歩き、〈ドミナエ会〉が目をつけそうな場所を訪れては警告をして、時には会の者たちと争った。それは一神官には出すぎた行為だった。神殿長の座に就いたカーザナは、彼を罰さなくてはならなかった。
罰と言っても厳しいものではない。ちょっとした謹慎のようなものだ。
おかしな話ではあった。神殿に、神官に敵対的な行動を取る集団を警戒するようにと指示をし、暴力から自衛したことが罰せられるべきことだとは。
だが仕方がなかった。八大神殿全体とそれから祭司長によって、それは決められたことだったのだ。
〈ドミナエ会〉には反応を返さないこと。もちろん、神官を傷つけるなどという行為に対しては、違法行為としての処罰を各所町憲兵隊や、場合によっては軍の方に願い出る。しかし自ら討伐するという形は決して取らないようにと。
判らないではなかった。
反応をすれば、それは却って〈ドミナエ会〉に妙な箔付け――「八大神殿の敵」などという――をすることになる。彼らはそれを避けることを選んだのだ。
理解できない訳ではない。権威は時に重要だ。外れ神官のために八大神殿全体がおろおろしているなどと見られては、人々が不安になる。神殿組織は盤石たるところを見せ、捕縛や処罰は専門の組織に任せておくべきであると。
イゼフとて、それは判った。彼も神殿という組織の力で〈ドミナエ会〉駆逐することを望んだつもりはなかった。
ただ、彼が見ていなくてはならないと、そんなふうに。
カーザナの意見がどうであったのかは判らない。彼はイゼフにも胸の内を明かすことなく、決定事項に従ったからだ。無論、彼の立場としては、たとえ自らの考えがどうあろうと決定に従わなくてはならない。そうでなければ神殿長たちが集まって物事を決める意味がない。
よって、カーザナは、彼の立場に基づいてイゼフを叱った。
「勝手な行動を取るな」
神殿長らしい厳しい顔つきで、彼は言った。それから読みがたい表情で、こう続けた。
「一神官としての行為を逸脱すると思うときは、先に私に相談しろ。……悪いようにはせん」
それは神殿長の説教や警告ではなく、友を案じたひとりの男の言葉だった。
「――すまなかった」
イゼフは友に謝罪した。
「約束する。今後は、緊急の事態を除き、必ず貴殿に話すことを」
「ふ……きちんと条件をつけるところが、貴殿らしい」
そう言ってカーザナは少し笑った。
キエヴ。エクール。それはどちらも気にかかる存在だった。会が気にするだろうことが気になったとでも言おうか。
どちらにも守りの戦士がおり、その腕も確かであるようだが、その人数は決して多くなく、油断はできないと感じた。
イゼフは時折――カーザナに話をしてから――彼らの元を訪れた。
彼がジョリス・オードナーと顔を合わせたのは、キエヴの集落でのことだった。
初めに見かけたときは、こんな若者がいるのなら彼がキエヴ族を案じる必要はないと感じたものだ。
だが幸か不幸か、その若者はキエヴ族だけの希望の星ではなかった。
将来ナイリアンの騎士になる人物だと紹介されたとき――無論、最初から任命が決まっていたというようなことはなく、目指しているという意味だったが、ジョリスがその選定から洩れるとは誰も考えなかった――は、成程と思ったものだ。
キエヴではなく、ナイリアンの守り手。いや、その枠ですら小さいかもしれないと思わせる。
ジョリスの方ではイゼフに何を見て取ったのか。動機は何であれ、キエヴを守ろうとする意思を感じ取ったのか。それから若者はコズディム神殿にイゼフを訪れてくるようにもなった。「オードナー侯爵の息子」として特別扱いをしなかったイゼフが話しやすい相手だったということもあるかもしれない。
やがてふたりは年齢を超えた友人同士となった。キエヴの集落に案じていた襲撃があったのはその頃のことだ。
しかしその事件は、闇に葬られたようなものだった。イゼフはカーザナを通して祭司長に訴えたし、ジョリスも王城に報告を上げたが、せいぜい山賊の襲撃であるかのように扱われ、そちら方面の巡回を少し強化するという話が返ってきただけだった。それすら実際に行われたのかどうかも怪しい。
キエヴやエクールが王家に疎んじられているのだということは次第に判り出していた。誰も言わず、書物にもはっきりと記されてはいないが、歴史を紐解けば見えてくるものだ。
ヒューデアも知らずにいたキエヴとエクールとのつながりをイゼフが確信することはやはりなかったが、どちらも異民族のように――「異端」とされていることは判った。
彼はそれでもキエヴのもとに通い、少年だったヒューデアとも親しくなった。
だがそうした行動が、奇妙なことではあるが、彼を「模範的な神官」からは遠ざけたということになる。
年齢や通常の実績からすれば、彼はとっくに神官長になっていてもおかしくなかった。もとより、西ではその座にあったのだ。
事実、カーザナは――私情を抜きにして――そうした話をイゼフに持ちかけた。しかし彼は断った。逸脱行為は自覚していたし、やはり会への負い目もあった。
神官たちに一目置かれながらも彼がただの神官のままだったのにはそうした理由もあった。
それから、やがて祭司長となったカーザナと個人的に親しいということも。
もちろん彼は、友がそんな贔屓などしないことを知っている。彼らが親しいということも、そう多くに知られている訳ではない。
しかしながら、そこは彼の節度でもあった。自分が〈狼と仲良くなった鼠〉扱いされるだけならまだしも、祭司長に「個人的に親しい相手を取り立てた」などという疑いをかける訳にはいかない。
カーザナもそうしたイゼフの気持ちを知ってからは、神官長やひいては神殿長にというような話をしなくなった。ただ、〈ドミナエ会〉のことだけは、相変わらずイゼフと相談を続けた。
過激な行動が収まっていた昨今は、祭司長が強権を発動する必要もないと判断していた。キエヴやエクールに襲撃をしていた時代は、会のなかでも極端なことだったのだと。
それでもイゼフとしては安堵などできなかったが、ともあれ、そうして祭司長と直々の会見を持ち続ける彼はやはり、「地位はないながら特殊な立場にいる神官」と見なされもしていた。
だからこそ――。
こうして、死んだ魔術師の館にひとり赴き、奇怪な騒動の処理を任されたということがほかの神官たちに知れても、不思議には思われないであろう。
イゼフは陣を作り終えると、問題の部屋へと向かった。
その戸口で両手を結び、そっと聖句を唱える。最悪の事態、この場合、本当に危険な悪霊が出るということも考えに入れておかなくてはならない。
もっとも、その可能性は低いと考えていた。念のためだ。
神官はあの日キンロップ祭司長とやってきたリヤン・コルシェントの私室へ、すっと足を踏み入れた。
(やはり、何もない)
感じられない。無念の遺志が。ほんのかけらたりとも。
あのときは、特に探った訳でもなかった。だが彼には――おそらくキンロップにも――ひしひしと伝わったものがあった。
コルシェントの遺体を前に、最初こそ病死も疑ったが、すぐに「殺された」と認定したのは、かの魔術師の無念を感じ取ったため。
(ラスピーシュ殿下によれば、自らの魔力を暴走させた結果ということだが)
それとて無念ではあろう。厚顔にも無事に逃げ延びるつもりでいたのだ。
しかし、ない。あのとき感じたものが、わずかも残っていない。レヴラールのたとえを使うのであれば、まるで几帳面な掃除人が完璧に拭き取っていったかのようだ。
(だが)
神官は眉をひそめた。
(「汚れ」はなくなる訳ではない)
壁から拭き取ったものは、布に付着する。布を洗えば、水に移る。それを地面に捨てれば大地が吸収して浄化もしてくれようが、それにも時間はかかるし、形を換えても「消えてなくなる」訳ではない。
(どこへ)
彼は顔を上げた。
(――行った?)
問いかけに答える声はない。
「リヤン・コルシェント」
彼は死者の名を呼んだ。
「ラファランに導かれてはおるまい。既に闇のラファランに捕まったか。そうでなければ我が声を聞け」
彼は金色に輝く目を隠すことなく見開いた。
「出よ。まだ現世に留まっているのなら。彷徨い疲れて怨霊となる前に」
すっと何かが部屋をよぎった。それは実体を持たぬ影のような。
「――違う」
神官は呟いた。
「私はお前などを呼んだのではない、闇の眷属よ。影は影に還れ。人を惑わせてはならぬ」
彼は少し嘆息して手を振った。「人」の部分がない人影はすうっと消える。
「そこもだ」
神官は部屋の隅にうずくまる影を指した。
「隙をうかがおうとしても無駄と知れ」
厳しく声が発される。隅の「何か」は黒い泡のようになって消えた。
「まだいるか」
呟いて彼は部屋を見回し、棚の中段に座る小さな少女の人形をじろりと見た。
「居座るのなら主を考えるのだな。およそ、この部屋にいた人物に似つかわしくない」
人形の目がぎろりと彼を睨み、そして消えた。
と、そして部屋にかすかに降りていた薄闇が晴れる。
「ずいぶん様々なものを飼っていたようだな。……自覚なくではあろうが」
(もともとの気質もあろうが、魔術師ならばある程度の防衛はできたはず)
(悪魔の臭いがあれらを引き寄せたか)
或いは少しずつ闇に慣らされたいうこともあるやもしれない。それが悪魔の目論見か、はたまた一種の「自然の摂理」であるのかは判らないが。
イゼフはいくつかの聖言で闇の者たちを追い払うと、もう一度部屋、そして邸内全体を一度に確認した。
陣を描く石に変化はなく、誰も、何も、ここから彼の許可なく脱け出てはいない。
「いない、か」
顕現させるべき霊体はここにはない。
だが、何かがいたこともまた間違いない。
いまの影たちではない。あれらは騒がしいのが嫌いで、わざわざ複数の人間に存在を主張する真似はしない。標的を決めればまとわりつくことはあるものの、兵士らから上がってきた話は「何かを見た」というものばかりで、彼らの誰も「自分が憑かれた」とは思っていなかった。
無念は、どこへ行ったのか。
イゼフは緑眼を思考に沈ませ、じっと気配を探った。




