03 あまりにもよくありません
「あの人は、本当に知識だけであの地位に就いた、一種の変わり者なんですよ。識士には権力者の側面もあるため、その座に就くには人脈や名声も必要とされるんですが、ディナズ先生は本当に純粋な研究だけが認められ、並み居る好敵手らを退けて公正に議会で選ばれたんです」
「は、はあ」
「ただ、本当に骨の髄から学者なので口が巧くないと言いますか、空気が読めないところがあると言いますか、僕でもちょっと心配になるときがあるんですけれど」
「いや、その」
こいつに心配されるというのはどうなのだろう、とシレキはつい思ってしまい、それからはっとした。どうにもライノンのペースだ。何とか取り戻そうと、彼は一際強く咳払いをした。
「おい、ライノン」
それからじろりと、睨むようにする。
「ははは、はいっ」
びくっとして青年はまた退いた。
「びびるな。取って食いやしないから」
嘆息してシレキは鉄格子を掴んだ。
「俺がここから飛び出せないのは判ってるだろうに」
「この人、いっつもこんな感じよ」
ジラングがいつの間にか石の床にぺたりと座り込んでいた。いや、ちゃっかり毛布の上だ。
「今日はまだましな方かな。でも強く言われるとすぐ泣いちゃうから」
「ジラングさん、そんな言い方は酷いです」
ライノンは悲しそうな顔をして、一瞬シレキは、本当にこいつが泣き出すのではとかまえた。
「あの、それで、何でしょうか」
幸いにして大の男がいきなりわんわん泣き出すこともなく、ライノンはおののきながらではあったが、問いかけを返した。
「どうやってジラングと出会っ……いや、それはどうでもいい」
「へー。どうでもいいんだー」
不満そうな声が足下からくる。
「『いまは』という意味だ」
仕方なくシレキは言った。
「単刀直入に訊くとしよう。お前は何者だ?」
「な、何者と言われましても」
ライノンは目をぱちぱちとさせる。
「カーセスタ人じゃないが、カーセスタの先生についてやってきた。その助手ってことでまんまとラシアッドの王城に入り込み、害のない顔をしながらこんなところまで侵入を果たす」
「ジラングさんに連れられたんですよお」
また青年は泣きそうになった。
「泣いても可愛くないからよせ。女ならもしかしたら、可哀想に、なんて言うのかもしれんが」
俺は言わん、とシレキは顔をしかめた。
「女って、もしかしてあたし?」
「お前の話はしとらん」
「ひどー」
「ああ、ややこしくなるからしばらく口を挟むな。挟まないでくれ。頼むから」
「むう」
ぱたん、ぱたん、と尻尾が不満そうに床を叩く音がした。
「おっさんになっただけじゃなくて偉そうになったー」
「頼みます、ジラングさん。黙ってて下さい。これでいいか」
「むうう」
やはり不満そうではあったが、とりあえずジラングも口をつぐむことにしたようだった。
「で、あんたはいったい」
「うーん、僕の話をするととても長くなりますので」
「かまわんさ」
シレキは肩をすくめた。
「時間はある」
「そうでもないと思います」
控えめにライノンは返した。
「申し上げにくいんですけど、僕はそろそろ戻らないとなりませんし」
「戻るだと?」
「ええ。ディナズ先生のことも心配ですし」
「まあ、待て」
シレキは鉄格子を握る。
「正体を話したくないならそれでもかまわん」
「いえ、別にそういう訳では」
「とにかく。もうひとつ訊きたいことがある。こんなところまでわざわざやってきたってことは、俺にと言おうか、ナイリアンに協力する意志があると見ていいな?」
「え、ええと」
ライノンは目をぱちくりとさせた。
「――すみません、そうはっきりとは言えません」
「何だとぉ?」
「お、怒らないで下さい! ディナズ先生に迷惑をかける訳にはいかないんですよ!」
「こんなとこまで入ってきてりゃ十二分だろうが」
「それは、ですから、ジラングさんに引っ張られただけで……」
「あたし、別に、一緒にきてなんて言ってなーい」
ジラングはあっさりと言い放った。
「ええっ。ただ見送ればよかったんですか?」
「どっちでもよかったけど?」
「何だかちょっと、こう……猫っていうのは懐いてくれたと思っても実はそうでもなかったりするものなんでしょうか……」
ライノンは少ししょんぼりとした。シレキは肩を落とす。
「つまりあんたは何らかの覚悟があって侵入してきたのでもなく、なし崩しだと?」
「すみません」
「いや、謝るなよ」
ううむ、とシレキはうなった。
(どこまで本気で喋ってるんだ、こいつは)
(だいたい、ジラングについてきたと言ったって、ふらりと入れるような場所じゃないだろう)
彼自身、どうやってここへきたのか判らない――気づけば、ここに転がっていた――が、それにしたって仮にも牢屋だ。他国の客がうっかりでも意図的にでも容易に入り込めるとは思えない。
ジラングは、猫だ。いまは、理屈はさておき少女の姿をしているが、猫の姿にもなれる。と言うよりは猫から人の姿になれると言うのが正しいのかもしれないが、どちらにせよ、猫であればここまで潜り込んでくることも鉄格子の間から入ってくることも可能。
しかし、ライノンは。
(魔術師じゃないことは間違いないんだが……)
たとえラバンネルその人であろうと、「魔力がない」というように偽装することは不可能だ。「あるが、わずかだ」と見せかけることならばできるが、魔力を持つことは、魔力を持つ者には絶対に隠せないのである。
(……ん? 待てよ?)
(何だか……)
彼は何かに気づいた。
(変だな、こいつ)
だが何が「変」なのかが判らない。彼はじっとライノンを見つめた。おののいてライノンはまた下がる。
「な、何ですか……?」
「あんた」
浮かんだのは「人間か?」というような問いだった。人の形をした、または人の形を取れる人外、という可能性に思い至ったのだ。
しかし、それも違うと感じた。
目の前の青年は、十中八九、人間だ。
ただどこかが――。
(変だ)
「あの、申し訳ないんですが、本当にそろそろ戻らないと」
「逃げるなよ。取って食いはしない、いや、やろうとしたってできん訳だが」
「違います、本当に戻らないと」
ライノンはやってきた方を見た。
「あの、またお会いできると思いますので」
「……は?」
ぽかんとシレキは口を開けた。
「――何とかします。この状況は、あまりにもよくありませんから」
「お、おい、あんた」
「ですから、もうちょっと待っていて下さい。あ、それから、ジラングさんの手を借りることを許可してもらえますか」
「い、いや、俺の許可があろうとなかろうと、こいつは好きにやるし……」
「いいよー、借りは返さないとね」
ジラングは伸びをしながら気楽に言った。
「助かります。それじゃ、また」
ぺこりと頭を下げると、ライノンは姿を消した。何も魔術の類で消えたのではなく、廊下を進んでいけば身を乗り出せないシレキには見えなかったということだが。
「お、おいおい」
残された彼は呆然とした。
「あいつ、何て言った? 何ができるって言うんだ?」
「シレキが思ってるより、面白いよ、あの人」
彼を見上げてジラングが言う。それを見下ろしてシレキは両腕を組んだ。
「ええい、訳が判らん。こうなったら今度こそ」
彼はいつの間にか黒猫の姿になってしまったジラングを睨んだ。
「お前の話を聞かせてもらおうじゃないか」




