01 まだ判んないでいるの
しっかりした道徳観を持つ者からすれば、少女の格好はぎょっとするようなものだっただろう。
彼女は胸部と下腹部に簡素な布をまとっているだけ――つまり一見したところ、ほとんど下着姿にしか見えなかった。春女だって、もう少し薄物を着ている。
「相変わらずだな」
シレキは苦い顔をした。
「ほら、これを着ろ」
彼は上着を脱いで差し出したが、少女はちらっとそれを見ただけだった。
「やだ」
「『やだ』じゃない。人前に出るときはもうちょっとまともな格好をすると約束しただろうが」
「ここにはどうせ、シレキしかいないじゃない」
と、それが彼女の返答だった。「人前」ではないということらしい。
「だいたい、ここ、何? 湿っぽくて気持ち悪っ」
「知らんできたのか」
呆れるほかない。
「まあ、地下牢、と言うんだろうな」
あごを撫でながら彼は答えた。
「チカロー? 何それ」
「罪人を閉じ込めておくところだ」
「へえ」
あまり興味なさそうに少女は相づちを打った。
「シレキ、罪人なの?」
「違う、と言いたいところだが。不本意ながら扱いはそういうことらしい」
「何したの?」
「何もしてない。強いて言うなら、知っちゃならんことを知ったから、口封じの準備をされているところだ」
「クチフージって、聞いたことあるけど、何だっけ」
無邪気な問いかけと言うのだろうか。少女は目をぱちぱちとさせていた。
「一概には言えんが、この場合、俺は殺されそうになってるというのが実際だろう」
「はあっ!? 何それっ。駄目じゃない、そんなの!」
次には憤然と、まるでシレキが悪いかのように怒鳴りかかる。
「何でおとなしくしてんのよ!」
「生憎だが、俺じゃその鉄格子の隙間からは出入りできないんだ」
彼は肩をすくめた。
「しかしそんなことはどうでもいい。いや、どうでもよくはないが、俺にも訊きたいことがある」
じろりと彼は相手を睨んだ。
「――いったい! どういうことだ! いままで、どこでどうして……!」
「うっさい! 大声出さないで!」
少女はぴくんと頭の上の片耳を伏せた。
「あたしだってねえっ、好きでどっか行った訳じゃないわよっ」
「え」
彼は目をしばたたいた。
「自分の意志だった訳じゃない?」
「何、驚いてんのよ」
「いや、その……てっきり」
ううむ、と彼はうなった。
「ほら、言うじゃないか。死を覚悟すると、人前から消えるとか」
「はあ? 何言ってんの?」
「人間の俗説には、あるんだよ。そういうのが」
額を押さえて彼は続けた。
「猫は誇り高いから、死に顔を見られるのが嫌なんだっていう」
「勝手に殺さないでよね」
不満そうに――黒い尻尾がぴくぴくと揺れた。
「あんた、あたしと十年もいたくせに、猫のこと何にも判ってないのね!」
「それは聞き捨てならんな」
シレキは顔をしかめた。
「お前がいなくなったあと、俺が何匹の猫の世話をしたと――いてっ、何しやがる!」
ぱしっと勢いよくはたかれた手に、幸いにして、爪痕はなかった。
「あたしがいないと思って、ほかの女に手を出すなんて、最低! しかも何匹もとか!」
「ばっ、何言ってんだ。阿呆か!」
彼はむせた。
「猫は猫だ! どの猫もお前みたいに」
じろり、とシレキはジラングを見た。
「人化する訳じゃない」
彼の目の前にいるそれは、少女に見える。
同時に、猫のような点もある。三角をした猫の耳だとか長い尻尾だとかいったものが、中途半端な獣人のように露出している。
何でも「どちらかと言うなら猫に近い」というところらしい。これは「そういう生き物」。
少なくとも普通の猫とは違うが、もちろんと言うのか、人とも違う。「化け猫」とでも言うのが判りやすい表現だとシレキは思うものの、その言いようは本人――本猫の気には召さない。
「当たり前でしょ」
さらっと返事がくる。
「〈導きの丘〉とあんたとラバンネル。三つの要素が揃ったからこそ、あたしがいるんじゃない」
「そういう話だったな」
彼は嘆息した。
「あの術師にもさすがに馴染み深い現象じゃなかったようだが、よく判らんながらも解説してしてもらったさ」
かつてが思い出される。
あれはもう三十年ほども前のこと。神殿で世話をされていた子供が、息抜きに時折訪れていた〈導きの丘〉。そこで出会った黒毛の仔猫と強い魔力を持つ魔術師が、彼の人生を変えた。
シレキは仔猫ジラングを傍らにラバンネルに師事し、たくさんのことを学んだ。ラバンネルは最初こそ協会に行くことを勧めたが、シレキが――当時はそれを「よくない力」と教わっていたため――嫌がったので、自ら指導してくれたのだ。
あとになってみればあれでよかったのだろうと思う。結果的に彼は短時間で多くのことを学んだ。内容にいささか偏りはあったかもしれないが、彼には――彼とジラングにはそれでよかった。
おかげで彼は、初等教育では学ばない力の使い方を覚えた。
彼には動物の気持ちが判った。これは術と言うより、彼自身が持っていた資質であるという話だった。
その話は近隣で評判になり、あるとき彼を連れ出した女がいた。
彼はその「女狐」に利用されるところだったが、気づいたジラングが彼を救った。そのとき初めて、黒猫は人の――少女の姿を取って彼の前に現れたのだ。
もちろんそのときは驚愕したし、しばらくは「猫と話す」ことにどうにも慣れなかった。
だがいつしか、ジラングは彼にとって、なくてはならない相棒となった。
確かに猫という動物のことはもともと好きで、だからこそ仔猫を助けようと木に登ったりした訳だが、オルフィやカナトに言ったような調子――まるで恋人であるかのような――はいささか脚色である。マズリールという高貴な雰囲気を持つ白猫がいなくなったことは本当で、心配していたし探したいとも思っていたが、ジラングに対する感情とはまた違う。
封じられた魔力と言うのも、事実。ただし、彼の意思で引き受けたことだ。「魔女に呪われた」云々というのは出鱈目だが、判りやすいかと思ったのだ。もっとも若者たちは最初から信じていなかったし、「法螺ばかり吹く男」と彼を認識したようだったが。
「しかし、それにしても」
彼は嘆息混じりに、小さな三角の両耳と長く黒い尻尾を持つ以外は人間の娘に見える少女を見つめた。
「あまりにも変わらなさすぎるじゃないか? どうなんだ? それってのは」
「どういう意味よ」
「お前がいなくなってから十八年だぞ! 化け猫にもほどがあるだろ!」
「化け猫じゃないわよ! あんた、変化する猫と化け猫の違いもまだ判んないでいるの!?」
「どっちも猫だろうが」
それも異常な、と彼はつけ加えた。
「大雑把すぎて話にならないわね」
「どうでもいいだろうが、いまは」
「よくない。大事なことよ」
「判った判った、その話はあとで聞くから、いまはもうちょっと有用な」
「ふざけないの。あんたがその違いをちゃんと理解するまで、ほかの話なんてしませんからね」
「あのなあ」
「では簡単にまとめましょうか」
「……何?」
シレキは目をしばたたいた。ジラングはただ耳をぴくりとさせた。
「この世界の化け猫というのは通常、化けないんですね。つまり、変身はしないということです。その代わり人語を完璧に理解したり、猫という生き物がもともと持つ魔力に近いもの……こうしたものがあるから魔術師と相性がいいとも言われるんですが、そうした力が強まります。稀にですが、使い魔のように魔術師と過ごす化け猫がいますね。通常の使い魔とは違いまして、そこには契約は存在しません」
「待て」
「対して、変身する猫というのは、とても少ない。貴重とも言える存在です。それだって化け猫の一種と言えますけれど、変化するかどうかというのは大きな違いで、言うなれば階級が異なるようなものなので、一緒くたにされることをジラングさんは好かない」
「あー、おい」
「生まれながらの素質も必要ありますが、偶然整った環境といくつかの魔力ないしはそれに近い異なる力の干渉があって初めてその素質が育ちはじめるものであり、それが開花するとも限りません。端的な言い方ですがこの場合、シレキさんでしたね、あなたとジラングさんの相性が非常によろしかった、そのために彼女が人化を可能とさせ」
「だから、待てと言ってる!」
大きな声を上げてシレキは遮った。
「あの、どこか、説明が足りなかったでしょうか」
怒鳴られて、その声はおどおどとなった。
「おそらく間違ってはいないはずなんですけれども」
「いや、だいたい判ったし、間違ってるかどうかはちょっといまここでは検証できん」
シレキは片手を上げた。
「それより! 何だお前は!」
彼は鉄格子の外に立つ相手に再び怒鳴った。
「す、すみませんっ」
相手はぴょんっと飛びのいた。
「こ、こんなところまで入ってきてしまって。まずいかなとは思ったんですけど。ジラングさんがどんどん行ってしまうもので」
「いや、だから、待て」
彼は額を押さえた。
「あんた……確か、ええと」
「あ、覚えていて下さいましたか?」
相手はほっとした顔を見せた。
「はい、オルフィさんとご一緒のときに声をかけていただきました」
「カーセスタの……識士の助手、だな」
「はい、一応」
首に赤い布を巻いた青年はにこっと笑った。
「改めて。僕はライノンと申します」




