11 地下牢
それはもう、遠い記憶だった。
『――っち』
『こっちだよ、おいで。危ないよ――』
黒い仔猫はにゃんとも鳴かずに、大樹の枝先で硬直していた。好奇心で登ったはいいが高さに気づいて動けなくなってしまう。小さな猫に間々あることだ。
子供は仔猫を救うべく敢然と木に登ったが、生憎なことにあと少しだけ手が届かなかった。これ以上体重を預けたなら枝は折れ、彼も仔猫も地面に激突するだろうと思われた。もしかしたら猫は上手に着地をするかもしれないが。
葛藤はそう長くなくて済んだ。
もう少しだけ手を伸ばそうとした子供は、使うことを禁じられていた力を素直に使わずにいた結果、均衡を崩して地面に落下した。
いや、落下するところだった。
そこに青年魔術師が現れなければ。
『危ないところだったね』
魔術師は浮揚の術で彼と仔猫を救った。そして禁じられた彼の力は悪いものではないと話した。
きちんと学べばよいのだと。
『心を決めたら、私とおいで』
それまで彼は自分の力をよくないものだと考えていた。使ってはならないと、厳しく言われていたからだ。
いまにすれば判る。そのときその話を聞いたラバンネルが言ったように、「忌まわしいと考えられている魔力」を振るえば、人から避けられることもある。彼を育ててくれた神父はそれを案じたのだろう。
魔術の基礎は、全てラバンネルから教わった。通常であれば魔術師協会で初等と言われる教育を受けるのだが、それも絶対の決まりではない。要するに基本的な使い方を覚え、魔力を暴走させるようなことがなければよいのだ。
もっとも彼は初等以上のことを学ぶことができた。何しろ大導師が教師である。もしもう少し大きくなってから自発的に協会を訪れたとしても、なかなか知るには至らなかったであろうことを彼は知ることができた。
あの日、〈導きの丘〉で彼の人生ははじまったと言っても過言ではない。少なくともそれまでのものとは百八十度異なるものになった。
何の変哲もない穏やかな日々などというものは、その後当分、彼を訪れなかった。
当時は戸惑いもしたが、いまはただ懐かしい。
黒猫のジラング。
どれだけ助けられたか。
慕わしい姿が闇のなかにふっと浮かんで消えた。
シレキは口の端を上げた。
(思い出に浸るなんて、柄じゃない)
(……だいたい、そんな状況でもない)
彼は息を吐いた。何でまた突然、少年の日のことを思い出したものか。
(しかしまさか、ラスピーシュの兄貴が、ねえ)
よっこらしょっとシレキは身を起こした。
(あのにこにこ王子様には裏があるんじゃねえかとは思ったが、こういう方角だったとは)
ナイリアンに尾を振るように見せて逆にナイリアンもカーセスタも利用するつもりだろうとか、兄王子を傀儡にしているのではないかとか、そうしたことは考えたのだが。
(悪魔憑きは兄貴か)
判ってみれば兆候はいくつもあったが、カーセスタにばかり気を向けていた。向こうの誘導にまんまと乗せられたということでもある。
(とするとハサレックもリチェリンもこのラシアッドに)
(……オルフィはどうしちまったんだ)
彼もまたロズウィンドに捕らわれたのか。それともいち早くからくりに気づき、ナイリアンにでも知らせに行ったのか。
(それなら俺に一言あってもと思うが)
(ふたり揃ってとんずらはまずいと考えた、とも)
だがそれにしたってシレキに相談する方が自然だ。余程急に出て行かなければならなかったのか。
(考えても判らんな。会って尋ねるしかない)
シレキはオルフィの行動について考えるのをやめた。
「あー、どうすっかね」
呟いてぼりぼりと頭をかく。
(何とかここから出たいところだが)
(術師の籠手から力を借りられればともかく、現状のささやかな魔力しかないんじゃ、俺は本当にただのおっさん同然だからなあ)
ううむ、と彼は両腕を組んだ。
地下牢、と言うのだろうか。そこは、無論彼自身は知らないが、リチェリンの閉じ込められた半地下の部屋とはずいぶん様子が違った。冷たい石がむき出しの床、一枚だけの毛布、厠と思しき箱、そして何より特徴的であるのが鉄格子。
ここは明らかに罪人を入れるための場所であり、快適さとはかけ離れた空間だ。
(俺を生かしておく意味は何だろうな。さすがに人質の価値はないだろうし)
(何かの罪をかぶせて、処刑、かね)
たとえば、オードナー侯爵の暗殺。シレキが実はカーセスタの手の者だったとでもして――突拍子もないが、話などいくらでも作れる――、カーセスタとナイリアンを争わせる。ナイリアンにつくふりをして――逆かもしれないが――甘い汁を吸う。
(可能性はあるが、それだけとも思えんな)
(カーセスタはあくまでも、猜疑の目をラシアッドに向けさせないための存在だ。むしろロズウィンドは、ナイリアンよりもカーセスタと手を組んでいると考えるべきかもしれん)
(狙いは、ナイリアン)
(いや……エクール湖、か)
黒騎士ハサレックはエクールの神子を探していた。いまにして思えば、ラスピーシュも同じだったのだ。彼は、彼女が神子であることを確認したあと、ハサレックやコルシェントに情報を流した。コルシェントに襲われたのは事実だとしても、何かしらの対策はしていたのだ。だから逃亡を目論んだコルシェントの前に現れることができ――。
(根拠はないが、コルシェントを殺ったのは実際、ラスピーシュ王子なのかもしれん)
ロズウィンドとラスピーシュ。
人が好さそうな様子を鵜呑みにできないと思いながらも騙された腹立たしさときたらない。
ふと、入り口近くに重ねられているものに気づいた。何かと思えば、数冊の書物だった。ロズウィンド殿下は口先だけでなく、本当に彼に歴史書を用意したらしい。「誠実だ」などと言ってやれるはずもない。却ってますます腹が立つ、とシレキは思った。
(ウーリナ姫様は何も知らんと思いたいが)
(こうなると判らん、かもなあ)
つらつらと考えてはみるが、出てくるのはうなり声ばかりだ。解決策は何ひとつ浮かばない。
「はあ……せめて、本来の魔力があれば」
「〈移動〉が使えるようだったら、何かしらの魔力封じもされたでしょ。その程度でよかったじゃない」
「その程度とか言うな」
反射的に返して、シレキは目をぱちくりとさせた。
「お、おい……」
「驚きねー。ずいぶん、おっさんになったじゃない?」
両手を腰に当てて、どこか呆れたように声は言った。
「この前、追いかけられたときは本気で逃げちゃったわよ。すっごい顔してるんだもん」
「お、お前」
シレキはぽかんと口を開けた。
「何よ? あたしの顔、忘れちゃったの?」
十代の後半だろうか。少しつり目の、生意気そうな顔をした少女は、ほかに誰もいなかったはずの牢屋のなかで、じろっと彼を睨んだ。
「わ、忘れるはずが、あるか」
彼の声はかすれた。
「ジラング……!」
(第2章へつづく)




