01 叶わぬ願いであれば
ピニアを離れることは気にかかっていた。
イゼフに言ったように、彼女の状態は昔キエヴの子供が陥ったものとよく似ており、あのときは「目を離してはならない」とされていた。
もちろん、ヒューデアがピニアを見ている必要はない。彼女にはよく仕える使用人たちがいる。
だが、迷った。離れたくない、という気持ちがどこかにあったのか。
かつてジョリスに送り迎えされる彼女を見て、ヒューデアは奇妙な感情を覚えたことがある。それはしかし、よい感情ではない。「ピニアという占い師は〈白光の騎士〉に連れ添われるほどの価値がある女なのか」などと半ば蔑むように考えたこともあったということだ。
しかし話を聞けば彼女は本当に力ある占い師であったし、ジョリスの態度は騎士として当然のものだとも判るようになった。
そしてあの日、彼女の館を訪れて〈白光の騎士〉の喪失を分かち合ってからと言うもの、どこか慕わしい気持ちが湧くようになってはいなかったか。
(馬鹿な)
彼は首を振った。
(つまらぬ感情に気を取られているときではない)
わずかな葛藤は瞬時に切り捨てた。そしてリチェリンに、キエヴの集落への同行を申し出た。
そう、リチェリンもまた大切な人物だ。
アミツ。彼にだけ見える――存在を感じることのできる精霊が、リチェリンを指している。それはヒューデアにとってこの上なく重要なことだった。
彼女を守ることがナイリアンを守ることにつながる。ピニアの言葉もまた、大きかったかもしれない。ジョリスの信じた占い師。そしていまとなっては「ピニアの」言葉であるという単純な事実もまた彼に影響を与えた。
エクールの神子。当人は否定していた、或いは信じがたいという気持ちでいるが、どうやらリチェリンはそうした存在であるようだ。
キエヴに神子という存在はないが、彼自身がそれに近いと言える。
だが神事を執り行う訳でもない。アミツとのつながりがエク=ヴーとのつながりを連想させるだけのことだ。
そして――もしも本当に、キエヴとエクールに関わりがあるのなら。
神子は、キエヴ族にとっても大事な存在ということになる。
と言っても、急に「彼女を特別扱いしなければ」と思いはじめた訳ではない。男より力の弱い女子供に優しくするのは、別に普通のことだった。騎士のように礼儀を尽くすことこそなかったが、確かにリチェリンが思ったように、普段のヒューデアは女に手も貸したし、疲れているようなら気遣った。
ただ休憩場所にあの木を選んだのは、彼の感傷もあったかもしれない。
ジョリスと初めてふたりで話した場所。
それまでも、たまに集落を訪れる騎士に子供らしい憧れを抱いてはいた。だがそれはナイリアールの子供と大して変わらなかっただろう。「騎士様だ、格好いい」と思う、という程度である。
迷子になった子供の彼をジョリスが迎えにきたときは、緊張を覚えたものだ。すごくいけないことをした、という気持ちが急に強くなった。叱られると――怒鳴られたり殴られたりはないとしても、説教をされると思った。
だがジョリスは頭ごなしに叱るようなことはなく、彼の横に座って、話を聞いてくれた。
そうして彼が落ち着いた頃改めて、集落の人々がどんなに心配しているか、街道ではどんな危険があるか、何ごともなくここに行き着いたのはただ運がよかっただけだったこと、静かに諭してくれた。彼は恥じ入って、もう二度と集落のみなに迷惑はかけないと述べた。
ジョリスは優しく笑って、約束だと言った。
あの夜の美しい星空のことは、いまでもよく覚えている。
この木の下がヒューデアにとってジョリスと「出会った場所」だった。それはオルフィにとっての四つ辻のように、運命の場所だった。
その運命の場所で再会をしたのは、しかしジョリス・オードナーではなく、ハサレック・ディアだったということになる。
腕には自信があった。だがナイリアンの騎士だった男は、彼よりも場数を踏んでいたことに加えて、奇怪な魔剣を持っていた。
剣の届かぬ間合いからハサレックは黒い炎を彼にまとわせ――。
はっとして、彼は目を開けた。
そこは暗い部屋だった。すぐには目が慣れなかったが、上等な部屋だということは判った。
ただ、見覚えはない。
(何だ?)
(誰か……いる)
次にはそのことに気づいた。
すぐ近く、寝台の傍らに誰かが立っている。
彼はそちらに視線をやろうとしたが、まるで身体はまだ眠っているかのように動くことを拒否した。息苦しさを伴えば金縛りに遭ったかとでも思うところだ。
「目を覚ましたか」
誰かが言った。声に聞き覚えはなかった。
「ヒューデア・クロセニー。私の声が聞こえるか」
「何者だ」
彼は鋭く問うた。いや、そのつもりだった。実際には声はほとんど出ていなかった。
「毒が抜けても、すぐに回復するものでもない。無駄なことはやめておくのだな」
「毒だと? 何の話だ」
彼はぱっと起き上がって問うた。いや、そうしたつもりだった。だが彼の身体はまるで縛られているかのようにほとんど動かぬまま、やはり声もろくに出なかった。
「体力がかなり失われている。まだ起き上がることは無理だろう」
耳がぼんやりしている。しかしこの声は知らない人物のものだと、それくらいのことは判った。
「火傷自体は大したことがないはずだ。だが三日近く毒に蝕まれていたからな」
「何」
記憶が蘇った。
集落の近くでリチェリンを休ませていたところに現れた裏切りの黒騎士のこと。守らんと抜いた剣が――役に立たなかったこと。
「リチェリン! 彼女は」
「無事だ、案ずるな」
男は片手を上げて言った。
「そのままで話を聞くといい。警戒は不要だ。毒を受けた身体を癒やしてやったのだから敵ではないと判るだろう」
「毒、と」
ヒューデアはしかし容易に警戒を解かなかった。
「毒刃を振るったのがかの裏切り者であっても、たとえば調合したのがお前でないという保障はない」
声はまだかすれたが大意は伝わったようだった。相手はふっと笑いを洩らした。
「厳密に言うのであれば、お前は毒刃を受けたのではない。刀傷はもう治療されているようだが、ハサレックも倒れている者に剣を振るうのは好まなかったようでな、『剣士の仕業だ』というしるしとして少々切りつけはしたが、そこに毒が塗られていた訳ではない」
男の話す内容はヒューデアには判りづらかったが、彼は黙って聞くことにした。
「お前を眠らせ続けた毒は、黒き魔剣のものだ。お前はあの炎波を身の内に入れたのだ」
男は手に持っていた小瓶を揺らした。そのなかでは不思議なことに、小さな黒い炎が燃えていた。
「――不気味なものだ」
彼は正直な感想を洩らした。
「そうだな。私もそう思う」
意外にと言うのか、相手は認めた。
「だが当然でもあるだろう。獄界の炎であるのなら」
「獄界、だと」
「ハサレック・ディアが悪魔と契約を結んでいることは知っているだろう」
「……外道めが」
獄界の生き物と関わるということ、八大神殿から少し遠いところにいるキエヴ族でさえ厭うものだ。正常な感覚の持ち主であれば、悪魔との契約など汚らわしく――怖ろしくて考えてみることすらしない。
「それだけの悲願に行き会ったことのない者は、そう言う」
男はそんなことを言った。ヒューデアは顔をしかめた。
「悲願だと。強い願いがあれば人の心を捨ててもよいと言うのか」
「叶わぬ願いであれば諦めるべきだ、と?」
「叶わぬ願いであるのなら、仕方のないことだ」
「成程」
相手は肩をすくめた。
(ここはどこだ)
(それに、こいつは誰だ)
根本的な疑問が浮かぶ。
いつしか、暗がりに目が慣れてきていた。男の姿がはっきりとしてくる。
三十前後というところか。剣士、少なくとも「戦う者」であるのは感じられていたが、その顔立ちにはやはり見覚えがない。
しかしどこかで見たような。いや、見た目が誰かに似ていると言うのではない。なのに不思議と、知っているかのような。
ほかでもない彼自身に雰囲気が似ているのだ――とは、青年は気づかなかった。




