13 私の傍らで
「ここはカーセスタなの? 聞いたことがないけれど、何か特別な信仰が?」
「おっと、どうかな」
おどけたようにハサレックは両手を上げた。
「まあ、いろいろ考えてみるといいさ」
思わせぶりにハサレックは笑った。
「楽しみはあとに取っておくものだろ?」
「ちっとも、楽しくなんか」
またしても当然の答えを彼女が返しかけたときだ。
扉を叩く音がした。
「失礼しよう、神子殿」
どきりと臓が跳ね上がるような気がした。
そのまま静かに、扉が開かれる。
「おや、これは。おいでとは」
ハサレックがさっと礼をした。
「気を楽にしてくれ」
新来者は鷹揚に言った。
「公の場では仕方のないところもあるが、あまり畏まられるのは好きではない」
「そう仰いましてもね、俺は俺で、骨身に染みついているもので」
元騎士はにやりとした。
「あなたは」
リチェリンはすっと一歩退き、初めて目にする相手を眺めた。
二十代の半ばから後半だろうか。優しげな顔立ちに、柔らかい笑顔を浮かべている。一見したところは好青年という様子だ。
だがこうしてこの場に現れ、ハサレックがかしずく相手が、警戒すべき相手でないはずがない。
「――誰」
見覚えはない。
だが同時に、見たことがあるような気もする。
「神子殿の忠実な下僕……というのはどうかな?」
かすかに笑みを浮かべて青年は言った。
「何を言っているの?」
彼女はじっと相手を見た。
「どうして私に……エクールの民に興味を持つの」
「興味を? それは誤解だ、神子殿」
青年は首を振った。
「我々がエクール湖に対して抱いているのは、下世話な好奇心などではない。神聖性を見ている、と言うのも少々違うが」
笑んだまま彼は言った。
「憧憬、郷愁……そうしたものだな」
「郷愁ですって?」
いったいどういう意味なのか。リチェリンは顔をしかめた。
「そう、我々は〈はじまりの民〉から分かれた。いや……我々が本来の〈はじまりの民〉だと言ってもいい。どういうことかお判りに?」
丁重な態度で青年は言った。リチェリンは黙っていた。
「神子は湖とともにある。あの場所を離れることはできない、いや、貴女のように湖を離れて生きることはできるが、次の神子は必ず湖の畔に誕生する」
「何を……」
「そうしたことも貴女は知らぬのだな。よいだろう、時間はたっぷりある。これからゆっくりと教えよう」
「エクールの民から……分かれた……」
その言葉で思い出したのはキエヴ族のことだった。だがこの男がキエヴの人間であるはずがない。ハサレックの主なら、ヒューデアを傷つける指示を出した人物であるのだ。
「ナイリアン建国の歴史をご存知かな? 彼らの祖先は、かの地を蹂躙していた『蛮族』を一掃し、国を興した。その『蛮族』の血筋はいまも〈はじまりの湖〉や北の里で続いている」
ラスピーシュの話していたことだと判った。タルーからも大まかにだが教わったことがある。「北の里」については最近になって初めて耳にしたが。
「ナイリアンの魔の手から彼らは心の故郷たるエクール湖まで逃げ延びたが、周到にも待ち伏せをされていた。湖に戻った民はことごとく捕らえられ、残虐に殺された。始祖の地を捨てて更に遠くへ逃げる……その選択はどれだけ屈辱的だったことか。だが仕方がなかった。エクールは、ナイリアンの蛮族に敗れたのだ」
青年は「蛮族」の位置を逆転させた。
「時を待つしかなかった。じっと。だが敗残者はいつも哀れに追い立てられるものだ。逃げ延びた先でも彼らは侵入者として狩られそうになった。生き残るには戦って勝利するしかなかった」
青年は軽く拳を握った。
「卑怯な奇襲など行われなければ、エクールの戦士は敗れない。彼らは新たな土地で勝者となり、彼らの国を興した。始祖の地奪還の野望は抱いていたが、戦力を確保するためにも新たな国を安定させねばならず……長い時間が過ぎた」
ナイリアン建国の話は、いつしか別の国の話となっていた。
「だが、忘れた訳ではない。始祖の地で蛮族どもが王として君臨し続けている屈辱。力が足りぬと唇を噛んできたが、湖を離れた神子が我らに加護を与えてくれる」
青年は満足そうに彼女を見た。
「我らの手で湖から引き離す訳にはいかなかった。神聖な存在だからな。だがどんな理由であれ、何者かが連れ出してくれていたのだ。――助け出し、保護するのは当然」
「誰、なの?」
リチェリンは震える声で問うた。
「あなたはいったい」
「成程」
ふっと彼は笑った。
「田舎娘の純朴な愛らしさと、神女見習いの毅然とした態度、そしてエク=ヴーの神子たる、内に秘められた力。貴女には不思議な魅力がある」
ちっとも嬉しくない――と彼女はまた思ったが、ハサレックに噛みついたようには、口にすることができなかった。
微笑んでいるのに、何故か寒気を覚える。
優しげな様子に見えるのに、警戒心が誘われる。
(目が)
(笑っていないんだわ)
彼女は気づいた。
「いいだろう、合格だ」
不意に青年は言った。
「合格、ですって?」
何だか嫌な予感がした。
「いったい私が何に合格したって言うの」
「ハサレックが貴女に話したかな。もうすぐ、ラシアッドでは戴冠式があると」
ゆっくりと彼は言った。
「その場ではひとつ、重大発表が行われる予定だ」
「重大……発表?」
「その通り」
こくりと彼はうなずいた。
「新ラシアッド国王は、そこで花嫁を発表する」
「え……」
「ついに悲願の叶う日がやってくる。エク=ヴーよ、我らを導きたまえ」
さっと祈りの――八大神殿のものとは違う――仕草をして、青年は彼女の手を取った。リチェリンはびくりとしてそれを引こうとしたが、男の力がそうはさせなかった。
「湖神の神子よ。貴女の役割は難しいものではない。本来の務めを果たしてもらうだけだ」
ただし、と彼は続けた。
「それは湖の畔にてではなく、この国で。私の傍らで」
「あな、たは……」
すっと手足から血の気が引いた。
気がついた。
この青年が誰に似ているのか。
(どういう、こと……?)
そのとき、静かに開いた扉からもうひとりの人物が入ってきた。そのよく見覚えのある姿と改めて見比べてみなくとも、気づいてしまえば肉親の類似性はあまりにも明らかだった。
「やあ、リチェリン君」
ラスピーシュはいつもと変わらぬ気軽な挨拶をした。
そう、先ほどからラシアッドの歴史を語る青年は、似ていた。いつも楽しそうに笑い、彼女の困らせることばかり言うのにどうにも憎めず、彼女をさらおうとした魔術師コルシェントから身を挺して守ろうとしてくれた、このラスピーシュに。
「すまないな、兄上が少々、無茶をしたようだ」
「手荒な真似はしていない」
「それは、もちろんそうだろうとも、兄上殿」
第二王子は兄たる第一王子に向けて優雅な礼をした。
「大事な、それはそれはとても大事な、我らの神子だからね」
「ラスピー……さん……」
「何かな?」
いつもと変わらぬように見える、やわらかい笑み。
それを信じてきたのは、誤りだったのか。
「話はどこまで?」
弟王子は尋ねた。
「ちょうど、終わるところだ」
兄王子は答えた。
「貴女には、無論、それなりの地位を用意しよう。神子姫というのはウーリナのように力を持つ王女の通称だが、正式な身分として制定するのも悪くない」
ラスピーシュの兄は冷たい笑みを浮かべ、彼女の手を強く握った。振り払いたいという気持ちはあったが、彼女はそれを成せなかった。
単純に男の力に敵わなかったということもあれば、底知れぬ恐ろしさで身体が動かなかったということも。
「エク=ヴーの神子、リチェリン。ラシアッドの神子姫という称号と」
笑みを浮かべたまま彼は続けた。
「ロズウィンド・ウォスハー・ラシアッド新王の妃――という地位は、いかがかな?」
(第7話「迫りくる網」第1章へつづく)




