12 優しくするさ
半地下、と言うのだろうか。
その部屋は上部に小さな細い窓がついていて、そこは地上であるようだった。光は入るが、常に薄暗い感じがある。
だが、たとえば地下牢と言うような感じではない。きちんと絨毯が引かれており、調度品も簡素だが上等なものが置いてある。掃除はよく行き届いているようだった。
極端に広くはないが、寝台や数名用の丸卓があっても窮屈には見えない。明るさが足りないことを除けば、狭いがきちんとした宿屋といったところだ。
そんなふうに部屋の様子を観察できるようになったのは、ここで目を覚ましてからしばらく経ったあとだった。最初はとにかく混乱して、怖ろしくて――いや、自らの身について心配するよりも、リチェリンの前で血を流して倒れた若者のことをひたすら案じた。
唯一外部に通じるらしい扉をどんどんと叩いても誰もやってこず、彼女は不安を押し殺しながらただ待つしかなかった。
そうして半日近くも経っただろうか。
かちゃりと扉の開かれる音がして、リチェリンはキッとそちらを睨んだ。
「どういうつもり」
姿を見せた相手に、鋭く問いかける。
「あなたもあの魔法使いと同じように、私がエクールの神子で、湖神を蘇らせる力を持っている……なんて馬鹿げた話を信じているの?」
「馬鹿げてなんかいないさ、お嬢さん」
元〈青銀の騎士〉は威勢よく彼を睨む娘に笑いかけた。
「君は本当にエクールの神子で、湖神を蘇らせる力を持っているんだ、リチェリン嬢」
「ハサレック……」
きゅっとリチェリンは拳を握った。「様」とはつけなかった。
「ヒューデアさんをどうしたの」
「彼をどうするつもりもなかったさ。ただ刃向かわれたら戦うしかないだろう?」
ハサレック・ディアは肩をすくめた。
「運がよければ生きているんじゃないか。彼の里が近かったから」
「運が……」
黒い炎に包まれて倒れたヒューデアの姿が脳裏に蘇った。リチェリンはぎゅっと自らを抱く。あの奇怪な炎はすぐに消えたが、彼女は彼を助け起こすこともできなかった。ハサレックが彼女を捕らえたからだ。
(神よ、どうかあの人を)
(ヒューデア・クロセニーをお守り下さい)
どの神に祈るのか。
フィディアルか、ムーン・ルーか、それともエク=ヴー。
リチェリンは首を振った。
(私の葛藤について考えているときじゃないわ)
(全ての神に、祈りを)
そう、エク=ヴーにも
もしも彼女が湖神の神子であると言うのなら。どうかその祈りを聞き届けてほしいと。
「そうだな」
ハサレックは口の端を上げた。
「神子の祈りは彼に届くかもしれない。何しろアミツというのはエク=ヴーの使役精霊であるから」
「何ですって?」
初めて聞いた話にリチェリンは顔を上げた。
「そうらしい。俺はよく知らないし、あまり興味もないが。キエヴ族はエクールの民と根源を同一にしており、昔の戦いで分かれた際、アミツは北に向かったキエヴの守護者としてついていったんだとか」
「どうして、そんなことを知っているの」
ラスピーシュが繰り返し話していたことに近いが、事実かどうかは判らない。リチェリンは疑いを込めてハサレックを見た。
「俺はよく知らない、と言ったろう」
ハサレックは笑う。
「だが、とある知識を持つ人物によるとそういうことだ」
「それは」
リチェリンはハサレックを見据えた。
「誰のこと。あなたの新しい主なのかしら」
「言ってくれるね、お嬢さん」
かつての〈青銀の騎士〉――いまや新たなる「裏切りの騎士」はどこか面白そうに言った。
「もしコルシェントを『前の主』と言ってるならお門違いだ。俺が協力していたのは最初からこちらだからな」
「少なくとも鞍替えしたことは変わらないんじゃないかしら」
彼女は言った。
「それとも、騎士の誓いを立てたときには既に嘘をついていて、ナイリアン王家に尽くすつもりなどなかったの?」
「はは、手厳しい」
ハサレックは手を振った。
「それについては繰り返し、違うと言おう。俺は本当に、本心から〈青銀の騎士〉をやっていたとも。心の底から真剣に、王家のため、民のためにね。まあ、正直に言うならやはりジョリスかな、俺の心に影を落としたのは」
「どうあってもジョリス様には敵わないと知って、妬みの心を持ったと?」
「何とも、実にまっすぐにくるお嬢さんだな」
少し呆れたように男は言った。
「俺が怒って、君に乱暴をはたらいたらどうするんだ?」
脅すようにハサレックは軽く彼女の襟元を掴んだ。リチェリンは身を固くしたが、唇を固く結んで相手を睨み付けた。
「かりそめにもナイリアンの騎士と呼ばれた男が、女に手を上げると?」
「痛いところを突いてくれる」
ぱっとハサレックは手を離した。
「もちろん、ご婦人には優しくするさ。ナイリアンの騎士の名を取り上げられたからって、俺の本性がそうそう変わる訳じゃない」
「……本性」
「何か言いたげだな」
男は苦笑した。
「これが俺の本性ならそれを隠していたとでも? だがそういう訳じゃない。公私を使い分けるのは当然のことだろう。公も私も全く変わらないジョリスみたいなのの方が変わってるんだ」
「それは……そうかもしれないけれど」
リチェリンは戸惑った。
「はは、厳しいかと思えば意外と素直なところもある。好感の持てる神子殿だ」
楽しそうに彼は笑った。
「嬉しくありません」
彼女は少しむっとした。
「だいたい、ここはどこなの? どうして私を連れてきたの」
「神子殿をご招待したかった、とは言ったはずだが」
「私が神子であるかどうかはともかく」
リチェリンは顔をしかめた。
「エクールの神子にあなたが何の用があるの。それともあなたの主が」
「そうだな。ご主人様が、と言っておこうか」
くすりと男は笑う。
「湖神に興味があるのは彼だ。いや、興味があるというのも語弊があるな。彼は真剣だ。ちょっとした好奇心なんかじゃない」
「その『彼』は何者なの。いったい何を狙っているの」
「それは俺の口から言うことじゃない。もうすぐ当人がきちんと君に挨拶にくるだろう。ずっとこちらを気にしているしね」
「――それならいっそ、早くきてほしいわ」
呟くようにリチェリンは言った。
「あなたにのらりくらりとかわされるだけじゃ何も判らない。黒幕がいるのなら直接訊く」
「黒幕か。神女見習い殿のお言葉とは思えないな」
くくっとハサレックは笑った。
「生憎だが彼は忙しいんだ。カーセスタが何をしてラシアッドとナイリアンがどんな反応をしたか、そう言えば君は知らないようだな」
「カーセスタ?」
どうして南の隣国の名が出てくるのか、確かに彼女にはさっぱりだった。ラシアッドならばラスピーシュとウーリナの国として最近身近に思えるようになったが、カーセスタとはちっとも縁がない。
「ついこの前のことだ。カーセスタはナイリアン国境のすぐ近くで派手な演習を行った。何ごとかと反応したのはナイリアンよりもラシアッドだった。彼らは第一王子の戴冠式を行うことに決めると両国を招待した」
「……どういうこと?」
初耳の話にリチェリンはきょとんとした。
「国際情勢の話さ、神子姫。神学にはあまり関係がないから判らないかな?」
「少しは判るわ」
またむっとして、彼女は返す。
「カーセスタがナイリアンを牽制したということね? でもどうして。ナイリアンは何も、他国を脅かすような真似はしていなかったはずよ」
「その通り。だがカーセスタには理由があった。あちらでも内部に少々、権力闘争があってね」
どこもかしこも大変だ、などとハサレックは嘯いた。
「識士という地位を知っているかな。カーセスタの学者なんだが、他国の学者よりもずっと権力を持っている」
彼はざっと説明をした。
「三人の識士の間で、ちょっとしたいざこざがあった。首位と次位の間には、白光位と青銀位どころじゃない明確な差があるんだが、次位たる仁の識士が首位たる智の識士を脅かしていてね。まあ、詳しい話は面倒だからやめておくが、簡単に言えば彼らが国内の覇を競った結果としてナイリアンを巻き込まんとしたのさ」
正直、少しリチェリンには判りづらかった。だが何となくは理解できたし、教えを請うのも悔しかったので黙っていた。
「ラシアッドの反応は過剰にも見える。だがナイリアンに尻尾を振るためと解釈すれば不思議じゃない。もっとも俺の見たところじゃ、尻尾は振って見せても首輪までつけられる気はないという感じだな」
自分の評価にハサレックはうなずいた。
「カーセスタ……」
繰り返してみた。慣れない響きだ。あまり口にしたこともない。
「ここはどこなの」
再び彼女は問うた。
「ああ、何でも、祈りを捧げるための部屋だそうだ」
「祈り?」
やってきたのは求めていたものとは違う方向の答えだったが、思わず彼女は聞き返した。
「あまりそういう感じはしないわ」
落ち着いた雰囲気ではあるものの、祈りの間であればもっと清廉な、または清貧な感じがするものだ。彼女のよく知る教会はもとより、訪れたことのある神殿もみな、色彩は控えめで調度品もごくわずかだった。だいたい、寝台などは必要ないだろう。
「詳細は聞いていない。ただ年に一度、定められた者がここに何日も籠もって心身を清めるんだそうだ。その辺りは君の守備範囲じゃないのかな」
「そういう習慣は、聞いたことがないわ」
正直にリチェリンは言った。
「八大神殿の風習ではなさそうね」
それ以外の神についてはあまり詳しくない。




