08 「なかったこと」に
ナイリアンからの連絡は、なかった。
レヴラールが彼にいちいち連絡を取る義理はないが、何かあればラスピーシュが掴むはずだ。もっともラスピーシュにはレヴラール以上に義理がない。リチェリンやヒューデアのことはさすがに知らせてくれるだろうと思うものの、それ以外の変化は伝えてもらえないかもしれない。
「心配しなくても、何かあれば教えてもらえるさ。〈報せなきは順調のしるし〉って言うだろう?」
シレキはそんなふうに言ったが、「そうだな」と気軽には笑えない。
「順調じゃなかったら?」
彼は呟いた。
「何かとんでもないことが起きてて……連絡をすることも忘れてるとか。いや、いままさにそれどころじゃない状況だとか」
いまその場に彼がいれば助けになるようなことが起こっていないか。いま自分がここにいるのは間違いではないのか。そんな不安が湧きはじめる。
「そういうことは考えてもしゃーない。俺もお前もひとりしかいなくて、どこか一箇所にしかいられないんだからな」
素直に不安を吐露すれば、シレキは肩をすくめた。
「判ってる。判ってるんだけど、な」
オルフィは苦い顔をした。
「感情に理性が追いつかないってか。まあ、それも判らなくはない」
うーんとシレキは両腕を組んだ。
「なあ、オルフィ」
「うん?」
「『正解』なんてないもんだ。こんなこと、俺に言われなくてもお前はよく判ってるんだろうが」
「……そう、かな」
彼は呟いた。
「少なくとも、『誤り』はあるように思う」
「オルフィ……」
「いや、ごめん。何でもない」
カナトのこと。ファローのこと。ほかの道があったのではないかと、あったはずだと、考えても仕方がないことを何度も考える。
「どうしたって……過去に戻ってやり直すなんてことは、できないもんな」
『ふふっ、それはどうだろう?』
不意に声が聞こえた。そんな気がした。オルフィははっとする。
「あいつ!」
「な、何だ? どうした」
「おっさん、ごめん。俺、ちょっと」
彼はがたんと立ち上がった。
「ちょっと、急用を思い出した!」
「お、おい」
どうしたんだという繰り返しの問いかけを無視して、オルフィは客室を飛び出した。
ラシアッド城のことはよく知らない。だが通りすがりにちらりと見かけた裏庭のような場所。あそこにはほとんど人気がないようだった。
オルフィは足早にそこに出向き、辺りを見回して誰もいないことを確認するとどこか当てもない宙を睨んだ。
「ニイロドス!」
「ふふっ、久しぶりだね、ヴィレドーン」
すうっと何もないところから影が歩み出た。
「オルフィだ」
淡々と彼は言った。
「ああ、そうだったね。いまの君は。でもそれでいいの?」
「いいに決まってる」
きっぱりとオルフィは答えた。
「過去を捨てる訳じゃない。俺の過去は俺の過去だ。だがいまは、俺はオルフィだ」
「ふうん?」
ニイロドスは片眉を上げた。
「でもどうかな? 過去が現在になったなら」
「何だって?」
「ふふ、さっきの話の続きだよ。過去に戻ってやり直すことは――本当にできないと思っている?」
「当たり前だ。できる訳が、ないだろう」
顔をしかめて彼は答えた。
「まあ、そう言うのも仕方ないね。君はみんな、忘れてしまうから」
「思い出してる。知っているくせに、妙なことを言うな」
「そうだね、知っているよ。君が思い出していることも、思い出せていないことがあることも、思い出せるはずがないことも、ね」
くすくすと、耳障りな笑い。
「思わせぶりな言い方はやめろ」
苛ついたように彼は手を振った。
「お前のために割いてやる時間なんてないってのに」
「つれない、愛しい、ヴィレドーン!」
あははとニイロドスは声を上げて笑った。
「俺はオルフィだと言って」
「はいはい、そうだね。じゃあ言おうか、オルフィ。君はヴィレドーンとしての自分を思い出した。親友と主を殺害した忌まわしい記憶のことも。でも思い出せずにいる。どうしてその後、君がそうして『オルフィ』となったのか」
楽しげに言われたが、反論ができなかった。
確かにその通りだ。そこだけが判らないままでいる。
「言ったよね。とても様々なことことが絡み合って、そうした結果になったのだと。絡み合わなければ、君はその望みを叶えられたのに」
「……何だって?」
聞いてはいけない。そう思った。悪魔の言葉に耳を貸してはならない。彼はよく知っている。だと言うのに、気づけばオルフィは聞き返していた。
「何の話をしてるんだ」
「もちろん、過去に戻ってやり直す話だよ」
気軽にニイロドスは答えた。
「あのときはラバンネルが邪魔をした。大した人間だと思うよ! この僕の力をねじ曲げてしまったんだから」
「ラバンネル、が」
「その辺りは推測がついているだろう? いくら大導師と呼ばれる魔術師でも、人間の時間を戻してしまうことなんて不可能だ。君から時間を『引いた』のはほかでもない、この僕」
「時間を……引く?」
よく判らない表現だった。
「そう。人間には寿命がある。それが尽きると冥界から迎えがくる訳だけれど、冥界の帳簿に載っていない死が人を訪れることもある。それはまあ、たいてい、僕らの仕業」
楽しげに悪魔は告白した。
「僕らは人間の時間を戻すことができる。それが『引く』ということ。逆に送る、つまり『足す』こともできるんだけどね」
「そんな、ことが」
想像もつかない能力にオルフィは驚かざるを得なかった。
「そうだよ」
「ニンゲン」の驚きに悪魔は満足げだった。
「君は僕と約束したんだ。君の時間を僕に引かせることを」
「……何、だって?」
「自分がどんな契約をしていたのか、気になるだろう? もう少し詳しく教えてあげようか」
「契約なんて」
オルフィは顔をしかめた。
「俺はそんなもの」
「覚えていなくたって、契約は消えない。僕は君に力を与えた、その報酬を半分しかもらっていないんだ」
ニイロドスは一歩近づいた。オルフィは退きそうになったが、とどまった。
「俺の『時間』が半分、か?」
「当たり」
ぱちんとニイロドスは指を鳴らした。
「では、あとの半分は何だったかな?」
覚えていないと判っているくせに、この問いかけだ。オルフィは沈黙で返した。
「教えてあげようね。君が『オルフィ』として過ごした時間、いや、この先の十年、巧くすればその先も含めて……君は僕のものになるはずだったんだ」
にっこりと悪魔は言った。彼は沈黙を続けた。
「ただし、それはこの時間軸においてじゃない。僕はもう一度、君にヴィレドーンをやってもらうつもりだった。過去に戻り、出来事を替えて……そうだね、最初から僕が手を貸せば、君は〈白光の騎士〉にだってなれた。そうすれば君は、親友を手にかけずに済んだだろうね」
「な、何だ……それは」
オルフィの声はかすれた。
「意味が、判らない」
「そう? 単純明快なことなんだけれど?」
くすり、とニイロドスは笑う。
「できるんだよ。僕には。君のつらい過去を『なかったこと』に。もうちょっと上手に立ち回れば君は裏切りの騎士どころか稀代の英雄と呼ばれたかもしれない。ああ、それには少々、アバスターが邪魔だったかな。でも」
楽しそうに悪魔は続ける。
「アバスターだってラバンネルだって、殺してしまえただろうね。同じ時代に英雄はふたりも三人も要らないんだし」
(何を言っているんだ、こいつは)
判らなかった。オルフィには。
仮に悪魔が本当にそんな力を持っているとしても、アバスターやラバンネルを殺すことで、ニイロドスにどんな利があると言うのか。
(……彼らがいなかったら)
(彼らが助けた人が助からなかったことになる?)
ふとそのことに思い至った。
哀しみが、不幸がはびこって、土壌を成す。悪魔の好む、混沌の。
(そういう、ことなのか……?)
「どうしたんだい? オルフィ」
薄い笑いが酷薄に見えた。
「幸か不幸か、その術は破れてしまった。君が再びヴィレドーンをやり直すことは難しい。気の毒にファローは君に殺されたままだ」
ニイロドスは肩をすくめた。
「――でも、もう一度、何もヴィレドーンの分だけじゃない。いまの君の……『オルフィ』の内に引っかかっている哀しい過去だって、なくすことができるかもしれないよ?」
思わせぶりな言葉。
「ジョリス・オードナーや、カナト少年と言ったかな? 彼らをハサレックの凶刃に倒れさせない方法があるとしたら、君はどうする?」




