03 招待状
「でも」
彼はあごに手を当てた。
「湖神が呼び起こされたとして……それを神子が操るようなことはあるのですか」
「いや」
長老は首を振った。
「神子は我らと湖神を繋ぐ存在だが、それだけだ。エク=ヴーは人の子に操られることはない」
「そうではないかと、思っていましたが」
(やっぱりな)
(そもそも湖神を呼び起こしたところで、エクール湖の守りが強くなるってだけだ)
(コルシェントは神子を従えればエク=ヴーを従えられるとでも思ったんだろうか?)
死んだ魔術師が何を考えていたのかはもう判らない。
誰に何を吹き込まれたのかも。
(ま、「誰に」は判るようだ)
コルシェントとハサレックを掌の上で転がしているのが誰か、考えるまでもない。
かつては彼も――ヴィレドーンもその手の上で踊っていた。
(面倒臭いのは、あいつには目的らしい目的がないってこと)
(あいつには、利害なんてものが関係ない)
(ただ気まぐれで、「面白そうだから」動く)
悪魔が何をしたいか、何をしようとしているかなんて考えても仕方がない。もし仮に何か目的があるとしても、それに悪魔は執着しない。「やっぱりやめた」の一言で、或いはその一言もなしに、手がけていた計画を手放してしまうかもしれない。
(手放して獄界へ帰ってくれるんならそれでいいんだが、新しくちょっかいを出し直されても困る)
(あいつがハサレックとコルシェントを使ったのはナイリアンを引っ掻き回したかったからだ)
(本当なら……ジョリス様を手にしたかったのかもしれないけど)
もしかしたら実際、ジョリスを籠絡しようとしたこともあったかもしれない。だが彼は、悪魔の誘惑に揺らぐことはなかっただろう。いや、彼とて人の子だ、絶対に揺らがないとは言えなくとも、陥ちることだけはないだろう。
それはオルフィの願いかもしれなかったが、それだけでもなかった。
彼は知っている。もうひとりの〈白光の騎士〉のこと。
ファローとて、たとえ迷っても、必ずはねつけた。これは確信だ。
もしあのとき、ファローがヴィレドーンに斬られなかったなら――。
(よそう)
感傷には浸っていられないのだ。まだ。
「リチェリンを連れた方がいいでしょうか」
彼は迷っていたことを尋ねた。
「いま『神子』の存在をあらわにすることが何を招くか、俺には判りません。彼女が危ない目に遭うようなことは避けたい。でもはっきりさせてしまうことで安全になるという考え方も、なくはない」
もしもまだニイロドスの、或いはハサレックの神子探しが続いているのであれば、何の関わりもない子供たちの命が危ない。だが神子の存在を明らかにして「湖神を呼び起こ」してしまえば、畔の村は守られ、神子にも強大な力などはないことが示せるかもしれない。
だがそう巧くいくとも限らない。彼女が神子であるとはっきりすれば、むしろ再び狙われる可能性の方が高い。
(どちらにせよ、奴らが神子を探していればという話だ)
(ニイロドスがちらつかせたのがコルシェントを動かすためだけの法螺話であれば、リチェリンにもう危険はない)
(だが、もしあいつがエク=ヴーに興味を持っているなら、また何か仕掛けてくる)
判らない。どうすればいいのか。
彼に考えられるのは悪魔の強い手駒、つまりハサレックを一日も早く押さえることくらいだ。
それがカーセスタとの戦という形にならなければいいとは思っているが、もしもそうした事態になってしまえば、戦うしかない。
「時が至れば」
不意に長老は言った。
「え?」
「神子の帰還も、湖神の目覚めも、時が至れば自然と行われよう」
「……時が」
それは曖昧にも聞こえる言葉だ。決定を避け、責任を取るまいとしているかのような。
だがそうではないこと、ヴィレドーンは知っている。長老は彼には見えないものを見て、そして慎重に言葉を発している。或いは、彼には判らない「何か」に発することを許された言葉だけを発している。
しかし同時に、オルフィは納得できなかった。
時がやってくれば正しいことが行われるという、それは彼が認めてこなかった――拒絶してきた「これは運命だ」という言葉に近く感じられるからだ。
(決めなくていいのか?)
(ほかでもない、この俺が)
(俺が、決めなくちゃならないんじゃないのか?)
そうした思いも浮かぶ。
では、彼が決めることが運命か?
彼が選んで何かことを起こす、または起こさないことが、あらかじめ決まっているのか?
そんなはずはない、とオルフィは言う。
カナトは――。
(そうだ)
(カナトはこんなふうに言ったっけ)
(……どうせ人の子には判らないんだから、どっちでもいいんじゃないか、なんて)
ふっと肩の力が抜けた。そこで、妙に緊張していた自分に気づいた。
「長老」
そのとき小屋の戸を叩く音が聞こえた。
オルフィは長老をちらりと見た。長老はこくりとうなずいた。それを見て彼は立ち上がり、扉のところへ行く。
「ああ、ソシュランさん」
そこに守り人の姿があるのは何も不思議なことではなかった。
「あ、おっさん」
その後ろにはシレキがいた。オルフィは驚いた声を出す。
「早かったな。俺はソシュランさんの馬できたのに――」
「これだ」
とシレキは魔術符を取り出した。
「成程。でもそれ、貴重で高価なんじゃなかったか?」
そうそう気軽に使えない、と魔術師ならぬ調教師がぼやいていたのを思い出した。
「懐と頭痛に目をつむっても、早くお前に伝えなくちゃならんかと思ってな」
続いたのはそんな言葉だった。
「まさか」
さっとオルフィに緊張が走った。
「カーセスタと、何か――」
「いや、違う」
幸いにしてと言うのか、すぐに否定がきた。
「何だ。それじゃ、橋上市場の件か? 何か判った?」
「いや、そうでもない。あのお嬢さんが言ってたのはどうやら、ディセイ大橋付近を根城にする不良少年どものことだったらしくてな」
倉庫をたまり場にしていたのはそうした子供たちに過ぎず、ハサレックの気配はなかったということらしい。
「んじゃ、いったい?」
「これだ」
と、シレキはまた言ったが、示したものは符ではなかった。
「封筒?」
「ああ」
こくりと男はうなずく。
「何だかずいぶん、派手なと言うか、飾り立てられてると言うか」
シレキが手にしているのは、オルフィがこれまでに目にしたことのある「紙の袋」とは一線を画する立派な封筒だった。
「招待状、だ」
「え?」
オルフィは目をぱちくりとさせた。
「招待状って、もしかして……ラシアッドのどうとかって言う」
「その通り」
またシレキはうなずいた。
「戴冠式の? 何でおっさんが?」
「俺が招かれた訳じゃない」
顔をしかめて、シレキ。
「じゃ、誰――」
言いかけてオルフィはもしやと思った。
「ああ、いや、何だ。あの王子殿下はまず彼女を名指しした」
「かの……まさかリチェリンか!?」
「その通り」
シレキはうなずいた。
「なっ、何でまた」
「さあな」
「あいつ、自分の趣味で勝手に決めてんじゃねえか!?」
「まあ、そんな気もするな」
だが、とシレキは肩をすくめた。
「いま彼の決定に異を唱えるのは難しいぞ。何しろ単身カーセスタに乗り込んで、あの冗談みたいな戯言、もとい、勇気ある提案をまじで達成して戻ってきたんだからな」
「達成。それじゃ」
「ああ。カーセスタとナイリアンの武力衝突は避けられた。カーセスタはあれを『演習』だと言い、兵を引いたとのことだ」
「そりゃ、朗報と言えるけど」
話の的がどこにあるのか判らず、オルフィは戸惑った。
「おっさん、あんたが俺のところに急いだ理由は、つまり?」
「おう、つまりだな」
シレキは招待状をオルフィの手に握らせた。続いた言葉にオルフィはぽかんとする。
「リチェリンとお前が、招かれてるんだ」




