12 思い出の場所
旅支度と言うほどのこともない。最低限の手荷物だけ整え、リチェリンはヒューデアと北へ向かった。
生憎とキエヴの集落に最も近く通る乗合馬車は出てしまったばかりで、次は戻ってくる二日後だと言う。だがヒューデアは慣れたもので、目についた隊商の主人に「北へ行く途中の三叉路まで乗せてほしい」と交渉し、了解を取り付けた。何でも娯楽と護衛は隊商に求められるものであり、「何かあれば戦って荷を守ることに協力する」との約束で無料、或いは格安で乗せてもらうのはよくあることなのだと言う。
緊張しなかったと言えば嘘になる。
ヒューデアは愛想こそ悪いが――いや、言葉が少ないだけで、厳しいことを言うのでもない。特に、行動を共にしていたのがあのラスピーシュであることを思えば、実際以上にむすっとして見えていたということもあるかもしれない。
と言うのも、その日のヒューデアはこれまでになく話をし、友好的な感じに思えたのだ。
そしてそればかりではない。
「――ほら」
「え?」
予定の三叉路で馬車から降りるときである。差し出された手に、彼女は目をしばたたいた。
「この辺りは舗装ががたついているからな」
「は、はい」
驚きつつも彼女はその手を取った。
「あり、有難うございます」
無事に降りてリチェリンは戸惑いつつ礼を言った。
「いや」
そこでまた彼女は驚かされた。
「ご婦人の身を気遣うのは当然のことだ」
かすかに笑みさえ浮かべて、彼はそう言ったのだ。
(ま、まるでラスピーさんみたいなことを)
だが何もラスピーシュの真似をした訳でもあるまい。自然に出てきた言葉のようだった。
(そうだわ、もしかしたら)
彼女ははたと気づいた。
(久しぶりに帰れるので、機嫌がいいのかしら)
そういう目線で見てみると、確かにどこか嬉しそうだった。
(キエヴの集落。ヒューデアさんの故郷)
(どんなところなのかしら)
話に聞いている感じでは小さな村ということだ。少なくともナイリアールよりは断然、彼女のよく知る南西部の雰囲気に近そうだ。
「私も」
「何?」
「あ、楽しみです。キエヴの村に行くのが」
「特に何もないところだが……」
ヒューデアは少し困ったような顔を見せた。
「いえ、観光というような意味ではなくて、その」
(カルセン村のような場所ではないかと思って、なんて言うのも失礼かしら)
考えすぎかもしれないが、少し気になってしまった。
「そうだな」
「えっ?」
「リチェリンの故郷に近いかもしれない。カルセン村と言ったか」
「え、ええ」
「『何もないところ』に似ていると言うのも申し訳ないが」
ヒューデアは少し顔をしかめた。思わずリチェリンは笑ってしまった。
「うん?」
「ごめんなさい。私も全く同じことを考えていて」
そう言って彼女は説明した。ヒューデアは目をしばたたき、それからまた少し笑顔を見せた。
「そうか」
「何だか、変な感じ」
くすくすとリチェリンも笑う。
「実は、この前も思ったんですよ。同じことを考えてたみたい、って」
「この前?」
「ピニアさんの館で……」
彼女はざっと説明した。そうだったのか、と言ってヒューデアもまた少し笑った。
「ここから村までは半刻程度だ。だが俺の足でだからな」
もう少しかかるだろう、と彼は言った。
「途中、休むことのできる場所もあるから、心配はしなくていい」
優しく笑んでヒューデアは言った。
「あ、有難うございます」
意外な表情と言葉の連続でリチェリンは赤くなりそうだった。
(もしかしたら、これが普段のヒューデアさんなのかしら?)
首都での彼は常に緊張し張り詰めていたのではないか。そう思うとヒューデアの印象がだいぶ変わる気がする。
(そうね……ジョリス様を亡くしたと思い、仇を取るという思いの内に行き合ったオルフィは)
(大事な籠手をそのジョリス様からお預かりしていた)
ヒューデアにしてみれば、オルフィ当人とは違う意味で「いったい何故」と感じていたのではないか。
やがてリチェリンやラスピーシュと出会い、協力をと言ったのも――ピニアの示唆があったことを除いても――オルフィや籠手、ジョリスのことがあってこそだ。
彼の立場からすればオルフィやラスピーシュ、リチェリンらがどういう人物であるのかさっぱり判らなかったはず。それでも「アミツが指した」ことを重視して――それは彼には当たり前のことであるのかもしれなかったが――彼女に手を貸してくれた。
彼が感情を見せたのは主にジョリスに関することだけ。ずっと冷静に、自分を抑えてきていたのだ。
(キエヴの村では、あまりヒューデアさんのお世話にならないようにしよう)
リチェリンは思った。
(少し休んでもわらなくっちゃ)
彼女が休むように言ったところで聞く青年とも思えないが、彼が気を遣わなくてもいいように。
「……ここを歩いていると、子供の頃のことを思い出す」
歩きながらヒューデアは話をはじめた。
「俺はまだ小さくて、村の外に出ることを禁じられていたんだが、どうしてかそのとき急に街道の先へ行ってみたくなってな。無謀にもこっそり、ひとりで出て行ったんだ」
彼女は黙ってその話を聞くことにした。
村の付近は寂れていて山賊だって出ないくらいだが――「獲物」がいないからだ――夜になれば危険な獣や魔物も出没する、と彼は説明した。
「暗くなる前には帰るつもりだった。だが興奮していたせいか、思ったより時間の経つのが早かった」
気づけば日は沈み、簡単なはずの道も判らなくなってしまったのだと言う。
「心細くなって、目に入った大樹を目指した。頼れるものを求めたのだと思う」
呟くように彼はつけ加えた。
「たどり着いたときには疲れ切り、根元で膝を抱えてしまった。じっとしていればやがて明るくなるだろうと子供心に思ったが、正直なところは怖ろしかった。風が葉を揺らす音にもびくびくとした」
(そんなヒューデアさん、想像できない)
(……でも小さな子供のヒューデアさん自体、想像しづらいわね)
思わずリチェリンはそんなことを考えた。
「そこに、ジョリスがきた」
「ジョリス様が?」
「ああ。村で俺がいないと騒ぎになっていたらしい。彼も探してくれたんだ」
そのとき初めて、ジョリスとふたりで話をしたということだった。子供の頃のその経験が彼を「ジョリスに傾倒」させる一因となっているのかもしれない。
「――あれがその木だ」
ヒューデアは指差した。
「そこで休むか」
(これは私のためと言うより、彼自身が行きたいのかもしれないわね)
彼女を気遣っているのも本当だろうが、ジョリスとの思い出を懐かしみたいというのもあるのだろう。
「そうしましょう」
こくりとリチェリンはうなずいた。
(ヒューデアさんがこんなふうに思うのは、やっぱり、ジョリス様が生きていらしたからでしょうね)
憧れていたジョリスの死。それが事実であれば、逆に思い出の場所になど近寄りたくなかっただろう。
「それって、いくつの頃だったんですか?」
「うん? そうだな……確か、十かそこらだったと」
「じゃあジョリス様は」
「二十歳前後、だったはずだ」
「その頃からキエヴ族のところにいらしていたの」
「ああ。彼の……オードナー侯爵家の別邸がこの近くにあるんだ。彼は子供時代をそこで過ごしていて、キエヴの子供と知り合ったのだと聞いた」




