09 行方不明
はぁ、とため息をついては慌てたように首を振り、気を取り直そうと笑みを浮かべる。
リチェリンの「ひとり百面相」は、周りに人がいないときに繰り返し出てしまうようになっていた。
本当のことを言うならば、心配なこと、不安なことで胸がいっぱいだ。だがそれを表に出せない。出す訳にはいかない。みんな頑張っているのだ。オルフィだって。
ラスピーシュ、ウーリナと語らってきた神女見習いの娘は、少々どんよりとした気持ちで帰途に着いた。
ラシアッド兄妹が疎ましいなどということは断じてない。いささか変わっているとは思うものの、王子様や王女様というのは多かれ少なかれ彼女の知る「常識」と離れているところがあっても不思議ではないどころか当然と言えよう。
ウーリナの微笑みや声は彼女のこわばった心と身体をほぐしてくれた。「王女様がお相手だ」という意識は抜けないが、最初のときのような強い緊張はなくなったし、年齢が近い分、話しやすいところもある。
さっきの昼食のことだって、おかしな恨みなんか抱いていない。オルフィのことを気にかけてくれているのは有難く思う。
ただ、問題はラスピーシュだ。
彼の冗談――だろう――には困惑させられることも多い。だがそのことが問題なのではない。先ほどの語らいで彼女が困ったのは。
(リチェリン君)
(君が神子であると知る人物は、多くない)
彼女自身は一応の否定――間違いの可能性が高いと思う、というような――を入れたがラスピーシュは全く気にしなかった。
(オルフィ君やヒューデア君、それにもちろん私も問題はないが)
(「敵方」では、死んだがコルシェント、そしてハサレック)
(それから、ハサレックの新しい、或いは本当の主も知っていると見るべきだろう)
その人物が神子を探していたのでは、というのがラスピーシュの言だった。コルシェントは利用されただけだと。
(神子は湖神へとつながる存在だ。君自身がどう思おうと、君は狙われると考えておくべきだ)
その話は散々聞かされていたし、彼女もまた事実はどうあれ警戒しておくべきだと判っていた。
(それから)
「――それから、このことも考えておくべきだ。湖神を探す方法」
「湖神を? 探す?」
リチェリンはきょとんとした。
「エクール湖にいるのではないの?」
「もちろん、湖の神なのだからね。本来ならばエクール湖にいるはずだ。しかしいま、湖神はそこにいない」
ラスピーシュはそんなことを言い出した。
「そうなんだ。神様は行方不明。だからこそ、誰かは神子を探している」
「ど、どうしてそんなことを知って?」
「私が興味を持って調べているという話はしただろう。〈湖の民〉たちにとって、湖神の不在は特に秘密じゃない。彼らは、湖神が必ず帰ってくると信じているし」
理由は不明だが、湖神エク=ヴーはいまエクール湖にいない。そして、それを呼び戻せるのが神子という話だった。
(私にそんなこと、できるはずもないのに)
「誰か」に再び非道な神子捜しをはじめさせるくらいなら自分が神子のふりをすると、そんなふうに思ったのはその場の勢いではなかったが、力不足の感が否めない。
(……ええい!)
リチェリンはきゅっと瞳を閉じ、気合いを入れるべく自らの頬を両手で叩いた。
(駄目よ、タルー神父様が仰っていたじゃない)
(ため息は、自分自身だけじゃない、周りの雰囲気まで暗くしてしまうって)
気分を軽くするどころか、却って落ち込んでしまうこともある。周りは心配したり、苛ついてしまったりするものだ。いいことはない、と。
(そうよ)
(ため息をつきたくなったら代わりに深呼吸を)
タルーの優しい笑顔を思い出して、リチェリンは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
(神父様……)
リチェリンは胸を押さえた。タルーと話をしたい。いま、とても。
(……大変なときこそ、笑顔を)
それもまたタルーの教えだ。リチェリンはにっこりと笑みを形作った。
笑んだからと言って心が楽しくなる訳ではない。だが哀しい顔を続けて哀しみを増幅させるよりはずっといい。哀しんでいたいのでなければ。
自分にできることをすると決めた彼女だったが、しかしその内容がはっきりしているとは言いがたかった。
(「私が神子」と思うのは難しいけれど、「もし私が神子だったら」というように考えてみよう)
息を吐きかけ、彼女ははっとして二度目の深呼吸をした。
(ピニアさんやラスピーさんから話を聞けば聞くほど、判らないわ。いったい「エク=ヴーの神子」とは何なの?)
湖神の声を聞くというのは、神女見習いが知る「神に祈ってその声を感じる」こととは違うようだ。この場合は本当に「聞く」。
実際に耳に聞こえるか、魔術のように頭のなかに聞こえるか、それは判らない。だが「心を落ち着かせて教えを心身に染み込ませることにより、神の与えるものと自らの使命を知る」という彼女の理解とは明らかに違う。
いかに高位の神官でも、耳に聞くように神の声を聞くことはない。神は人の子に、直接人の言葉で語りかけたりはしない。少なくとも、いまの時代はそうだ。
だが、だからと言ってエク=ヴーの神子が湖神の声を聞くというのを否定する気はなかった。湖神は彼女が学んできた神界神や冥界神とは違うのだ。そして違うものを「異端」として切り捨てることは、彼女の学んだことの内にはなかった。
しかし否定せずに受け入れるだけでは理解することにはならない。彼女は本当の意味では理解していない。
エク=ヴーの神子であるとはどういうことか。
それを理解するには、ピニアから話を聞いて「学んで」も駄目だ。
「もし自分が神子であるとしたら」、そう仮定するのであれば、理性だけではなくもっと気持ちを寄り添わせる必要がある。
三度深呼吸をして、リチェリンは立ち上がった。
「あの」
そして扉を開け、通りかかった使用人に声をかける。
「ピニアさんの具合はどうかしら?」
「だいぶいいようです」
使用人は少し笑みを浮かべた。
「神官様は、ずっと張りつめた気持ちでいたのだろうと仰っていました。見た目には落ち着いていても身体はずっと緊張していて、何かの拍子にふつりとそれが切れるというのは、間々あることなのだそうです」
「そうですか……」
あまり聞かないな、とリチェリンは思ったものの、イゼフが言うのならそういうこともあるのだろうと思い直した。
「ええ。どういう形で出るかは人それぞれだそうで、急に意識を失ってしまったり、大声を出したり、暴れたり……物の怪憑きと勘違いされることがあるけれど、全く違うものということでした」
イゼフがそうした説明で、主には使用人たちを安心させ、加えてピニアの名誉を守ったのだというのは、まだこのときのリチェリンにはぴんとこなかった。神官に「不可解な現象ではない」と言われることがなければ、ピニアはやはりベトルンディスだとか、未来を見すぎておかしくなったのだとか思われかねなかっただろう。
「お会いできるかしら」
「リチェリン様でしたら、もちろん」
使用人は突然の客人たちに何ら悪い印象を抱いていないようだった。無愛想なヒューデアにだけは少々気遣うと言おうか、対応に迷うこともあるようだが、少なくとも嫌っているとかいうことはない。
「それじゃ少し」
相談もしたかったが、何より見舞いという気持ちもあった。
彼女があらましを知ったのは、城から戻ってきたときだ。ちょうどイゼフが帰ってゆくところで、彼女はざっと状況を聞いた。ピニアにコルシェントの影が残っている――「魔術」そのものの影響ではなく、心の傷痕が――と聞かされた彼女は、自らを恥じた。と言うのも、表面上は平穏に過ごしているピニアの態度をそのまま受け取っていたからだ。
確かに彼女の傷は深く、容易に癒えるとは思っていなかったが、それでも克服しようとしているのだと。
だがそうではなかった。
彼女は前向きに微笑もうと努力していたのではなく、ただ忘れようとしていた。忘れられるはずもないことを心の奥に押し込めて、怖ろしいことなど何もなかったふりをしていた。
ヒューデアがたまたま、その掛け金に触れてしまった。




