07 馬鹿なこと
(ジョリス様と約束したんだ)
(破るなんて)
(……でも)
気づけば彼の右手は、その蓋の上に載っていた。
(俺、黒騎士を前に頑張ったよな。絶対渡さないって頑張って、あいつ、どっかに行っちまった)
(いったい、自分が守ったものが何なのかくらい)
(知っても……)
褐色の両眼は銀色の箱に釘付けにされている。指はまるで勝手な意志を持つかのように、蓋の留め金を求めて動いた。
(いや、いやいや)
(駄目だ駄目だ。俺は何を考えてるんだ)
思わぬ事態に興奮はしていたが、それでもジョリスとの約束を破ろうだなんて、思うはずが。
(でも)
その手はしかし、箱の蓋から離れなかった。
(もしかしたら、何なのか知っておくことが、役に立つかもしれない)
それは言い訳と取られても仕方のない思いつきだった。
だがオルフィは本気で考えたのだ。
黒騎士が狙ったのがこの箱――いや、この箱の中身であるとしたら。
(何なのか知っておいた方が)
(そう、たとえば偽物を用意して黒騎士を騙すことだってできるかもしれない)
オルフィは留め金に手をかけた。
(少し、見るだけだ)
(何も盗ろうって言うんじゃないし)
(そうだ)
(ちょっとだけ、ほんのちょっと見るだけ)
真剣に、彼は考えた。中身を守るための参考になるかもしれないと。
だが、やはりそれは言い訳であったろうか?
このときオルフィはもう箱の中身を見ることしか考えられなかった。
ジョリスとの約束は、急激に浮かび上がった強烈な好奇心と、そして「守るためだ」という正当に聞こえる言い訳の前に霧散した。
いや、好奇心とするのも奇妙だったろう。ジョリスとの約束のため、リチェリンにすら荷を預けられないと考えた彼が、何故こんなことを。
このときの彼に、その理由は判らない。
だが何人たりとも、逆らえぬものだ。
箱にかけられていた不思議な魔法には。それとも――運命と呼ばれる、激しい大渦には。
(ジョリス様だって)
(許して下さる)
何の根拠もなくそう考えると、オルフィはぱちん、ぱちんとふたつの金具を上げた。
(あ、鍵穴)
そのとき、正面の真ん中にある小さな鍵穴に気づく。
(そうか。鍵くらい当然、かかって)
開くはずがないな、と彼は確認するように蓋を開ける方向に力をかけた。
「えっ」
だが箱の蓋は、思いがけずあっさりと開いた。
「か、鍵は」
かかっていなかったということか。自分で開けておきながらオルフィは少々焦り、しかし――。
「何だ、これ……」
焦りも後ろめたさも、忘れてしまった。
銀色の蓋が開くと、そのなかには深紅の布が敷かれていた。天鵞絨のような肌触り。箱はその内部までも一級品だ。
そして、その真っ赤な寝台に眠っているのは、
「うわ……」
彼は箱を見たときのように、また感嘆の声を洩らした。
「それ」は、光を放っているように見えた。もっとも、それ自体が光っているのではない。月明かりに反射して、鈍く輝いて見えたのだ。
夜闇にも鮮やかに見える、明るい薄青。黄金色の縁取り。キラキラした玉は何だかよく判らないが、おそらくは高価な宝石なのだろうと思われた。
「これって……」
オルフィの手はそれに伸びた。
「籠手……かな……」
手の甲から腕の半ばまでを覆う、それは戦士の籠手のようだった。
そのとき、オルフィの内に湧いたものは何であったろうか。
悪戯心、出来心。興味、好奇心。
それとも、呼び声に応えなければという、義務感。
そう、それは呼んでいた。
敵の接近に逸り、自らを使えと、強く呼んでいた。
オルフィは知らなかった。何も。
ジョリスは何も言わず、オルフィはそれを詮索しようとも思わなかった。
探るつもりはなかった。本当だ。開けて見てしまっただけでも、あとになれば彼は浅薄な好奇心で騎士との約束を破った自分への憤りと羞恥で顔を真っ赤にし、いたたまれなくなって頭を抱え、人が驚くような大声でうなり声を上げたことだろう。
だが、たとえそうであったとしても、幸いであった。
それだけで済むのならば。
「すげぇ……」
右手がのろのろと動き、青き籠手にそっと触れた。
「こんなの、見たことねえ」
彼は呟いた。
「つけた、ことも――」
彼は、英雄アバスターに憧れた。
彼は、〈白光の騎士〉ジョリスに憧れた。
だがそのことは、戦い手そのものへの憧れとは違う。オルフィは戦士になりたいなどと思っていなかった。
分はわきまえていた。自分が剣でナイリアンを守るのだなどと考えたこともあるが、あくまでも子供の頃だ。剣の重みを知ってからは、ごっこ遊びすら――メリク少年につき合うときは別として――不謹慎と言おうか、身の程知らずであるように感じた。
だから彼は、何かで本物の戦士が使うような剣を手にしたとしても、はしゃいで振り回したりはしない。
だから彼は、不思議な青色をした籠手を目にしても、装着してみようなどと思わぬはずだった。
魔が差す、と言うのか。
それとも、籠手が彼を呼んだのか。
動いた。オルフィの手は、勝手に。
いや、魔術などで操られたと言うのではない。確かに彼の両手は、オルフィの意思で動いたはずだった。
しかし彼は望まなかったし、意識すらしなかった。
まるで夢のなかで誰かがそうしているのをぼんやり眺めているようだった。
彼は知らない。少し複雑な留め具を外すやり方など。
彼は知らない。どうやってその留め具を片手で上手にはめるかも。
なのに彼は戸惑うことなく、まるで長年使い慣れたものであるかのように、その籠手を取り出してそのまま――左手にはめた。
不思議に薄く思ったよりも軽いそれは、まるで誂えられたかのように、オルフィの腕にぴったりだった。
若者は不思議そうな表情を浮かべて籠手と腕を見ていた。やはりまるで自分のものではなく誰か別人の腕を見ているかのように。
(ぴったりだ)
(こんなこと、あるのかな)
(俺の手は戦士みたいな太さはないのに)
決して細い訳ではなく、中庸だ。力仕事もやるとは言え、ずっとそればかりでもないから、特に筋肉が発達することもない。
なのに、こんな立派そうな籠手がぴったりだとは。
(俺の手)
(……え?)
そこでオルフィは目を覚ましたかのようにまばたきをした。
「ちょ、な、何をやってるんだ俺は!」
中身を詮索しないというジョリスとの約束を破った。だがこれには、正当とは言えなくとも、理由があった。中身を知っておくことで強奪を回避できないかと考えたことは、言い訳のようでもあるが、事実でもある。
しかし、取り出して装備したことには、どんな言い訳も通用しないだろう。
黙っていれば判らないかもしれないが、ジョリスに隠しごとをするなど考えられることではなかった。
「何て馬鹿なことを」
オルフィはまるで我が子が悪事を働いたと知らされたときの親のように嘆いた。嘆いても起きたことは消え去らず、時が戻らないことも承知だが、とにかく呆然と「うちの子がそんなことをするなんて」と。
自分が、自分の手がそんなことをしたのが信じられなかった。
(とにかく、すぐ外して元通り箱のなかに)
(すぐ)
(外して……)
そこでオルフィは、ますます混乱した。恐慌状態の一歩手前だった。
「なっ、何で」
彼は声を裏返らせた。
「何で、外れないんだよ!?」
留め具は、釘で壁に打ち付けたかのように、ぴくりともしなかった。
青き籠手は強力なにかわで貼り付けたかのように、一ファインたりとも動かなかった。
「な、何で」
あんなに簡単に装着したのに、外れないなどということがあろうか。オルフィは焦った。
「えいっ、くそっ、外れろっ、このっ」
複雑な留め具は、しかしそれが「複雑である」という理由以外で、彼の指示に従わなかった。別にオルフィが不器用なのではない。片手では難しいところもあるが、たとえこのとき隣に世界一手先が器用な人物がいたとしても、その留め具が外れることは決してなかった。
しばらく彼は嫌な汗をかきながら留め具と格闘した。
だが、一向に外れない。
ぴくりとも動かない。
異常事態だ、とオルフィも悟らざるを得なかった。
「どう、しよう……」
ちっとも荷車を走らせる気配のない主人に、クートントが不満そうに鼻を鳴らす。
「いったい、これ、どうしたら」
思い浮かんだのは聞いたことのある物語。呪いのかかった剣を手にしてしまった戦士が、死ぬまでそれを手放せないというような。
(呪い)
(まさか)
(だって、ジョリス様の持っていたものだ)
蒼白になりながらオルフィは考えた。
(ジョリス様)
(こんなこと、知られたら)
もちろん、知られる。オルフィ自身が再びジョリスに会うつもりであれば、当然だ。このまま逃げ出してナイリアンを去りでもしない限り、ジョリスはこのことを知る。
それでも逃亡という選択は彼の内に浮かばなかった。
ただ開けて中身を見たことでさえきちんと告げて許しを請おうと思っていたほど、彼は〈白光の騎士〉に敬意を抱いているのだ。こんな突拍子もない事態になっても、逃げるなど。
(俺はいったい)
(どうしたら)
途方に暮れて、若者は籠手に覆われた自らの腕をじっと見つめた。




