15 手を出すな
見慣れぬどこかの田舎者、もとい若者が〈赤銅の騎士〉から何故か特別に一対一の稽古をつけてもらっている――という話は城中に知れ渡っていた。
好奇心を抑えきれずに中庭をのぞいたはしたない者たちは、オルフィやヒューデアが驚くべき技術を持つことを知り、訳知り顔で「新しい騎士候補生ではないか」と噂した。
それはもちろんとんでもない誤りであったが、とにかく彼らは瞬く間に顔を覚えられ、城内を歩いていても誰何されたり咎められたりすることはなくなっていた。使用人たちが出入りを禁じられるような場所では同じように禁じられたが、見張りのいない廊下を通るくらいであればとめられることはなかった。
結果としてオルフィは、目指す回廊に向かって邪魔者もなく歩いていくことができた。ラスピーシュとリチェリンがいつまでも同じ場所にとどまっているはずは無論ないが、あの廊下からならどの通路を通るかくらい、かつての騎士の記憶を持っている若者にはだいたい予測がつく。
オルフィはシレキと分かれて数分と経たぬ内に、目論見通り廊下でラスピーシュと行き合うことになる。
(あれ……?)
しかしその傍らにリチェリンはいなかった。もしやラスピーシュは彼女をウーリナのところにでも送ってきたのだろうか、或いはいままで彼女はウーリナといて、ラスピーシュとはたまたま回廊で会っただけだろうか、と思い直さざるを得なかった。
「おや、これはオルフィ君」
ラスピーシュはいつもの通りにっこりとした。
「もしやリチェリン嬢を探しにきたのかな? だとしたら気の毒だが、行き違いだ。たったいまそこの角で分かれたところだから、追いかければすぐに」
「おい」
オルフィは遮った。ラスピーシュが彼女といたのであろうがそうではなかろうが、言っておかなければならないことがある。
「リチェリンに手を出すな」
ずばりと彼は言った。ラシアッド王子は目をしばたたいた。
「か、彼女は神女見習いで……エクールの神子かもしれない、重要な人物なんだからな」
それからそう続ける。
「は、あん」
ラスピーシュはにやりとした。
「成程。私がいままで彼女と濃密な時間を過ごしていたことを野性の勘で嗅ぎつけて、それで飛んできたという訳か」
「の、濃密な」
「ああ、そうだとも。喜ばしいひとときだった。優しい微笑み、戸惑ったような、照れたような顔つき、何とも忘れがたい彼女の――」
わざとらしく、彼は舌なめずりなどした。
「素晴らしい、味わい」
「あ、味」
まさか、などと思うよりも早くオルフィはかっとなった。
「てめえっ、リチェリンに何を!」
右手が伸びて、ラスピーシュの胸ぐらを掴もうとした。
だがそれよりも早かったのは彼の左手――ではなく、別の人物の右手だった。
「我が殿下に乱暴な真似はやめていただこうか」
「おお、クロシア。いつもながら頼りになる」
ラスピーシュはぱちぱちと手を叩いた。
「だが放したまえ。オルフィ君に失礼だろう。鍛錬をしてせっかく自信をつけてきているところなのに、そんな簡単に背後を取ってしまっては」
「うぐっ」
非常に痛いところを突かれて、オルフィは奇怪な声を発した。
「感情に乱れるようでは、まだまだ」
淡々と言ってからクロシアはオルフィを解放した。
「ああ、そうみたいだな」
渋々と認め、オルフィはクロシアを振り返った。
オルフィはこのクロシアというラシアッド人について、話だけ聞いている。リチェリンやピニアが「ヒューデアに似ているようだ」と言っていた。
(そんなこともあってリチェリンがヒューデア贔屓なのかも、と思ったんだよな)
(でも確かに、ちょっと似てるかも)
顔立ちは似ていないが、雰囲気が似ているという意味では確かに――。
(ん? ほかにも、誰かに似ているような)
やはり顔立ちではない。だが誰かを思い出す。
(誰だったかな)
とっさに思い出せない。あまり近しい人物ではないように思った。
「オルフィ君は初めてだったかな。彼はノイ・クロシア。仕事はいろいろあるが、いまは私の護衛兼、情報屋だ」
冗談めかしてラスピーシュは紹介した。護衛はともかく「情報屋」と言うのは、身分が知られる前のようには自由に動けない王子の代わりに「ナイリアールを探る」役割を負っているということだろう。
「もっとも、いまのは私がからかったのが悪かった」
ラスピーシュは肩をすくめた。
「からかっただって?」
「もちろん。私と彼女は侍女も同席する明るい部屋で、実に健全に茶飲み話をしていただけだよ」
片目をつむってラスピーシュは言った。
「それも、帰るという彼女を私が引き止めたんだ。話し相手がほしくてね。だから君が心配するようなことは何もない」
「お、俺が心配って、何だよ」
「何って」
巻き毛の青年はにっこりと続ける。
「『神女見習い』で『神子』の彼女の身を心配したんだろう?」
「う」
オルフィは目をしばたたいた。
「そ、そうさ」
「ふふ」
彼は笑った。
「意地悪をしたくなってしまうのも君の魅力だねえ」
「なっ、何だよ、それは」
「つまりだね。カナト君には撫でくり回したくなるような魅力があった。リチェリン君には優しくしたくなるね。ヒューデア君には馬鹿なことを言って冷たい目で見られたい気持ちになるし」
「あのなあ」
オルフィは脱力した。「リチェリンに手を出すな」と本気で言ったのが何だか馬鹿らしく思えてくる。
(ここまで戯けた奴だってことくらい、リチェリンに判らないはずがないよな)
こいつに騙されるのでは、などと思ったのは彼女に対して失礼というものだ。オルフィはそんなふうに思った。
「ところで、いつまでもこんなところにいていいのかい?」
「ん? リチェリンのことか?」
「彼女はウーリナのところだ。可愛い妹が寂しがっているので話し相手になってほしいと頼んだんでね」
「おいおい。リチェリンはピニアさんの用事を言いつかってるんだ。ウーリナ……様とのお話はかまわないけどさ、リチェリンを困らせるようなことは」
「彼女は、用事はないと言っていたが」
私だってそれくらいは確認したとも、とラスピーシュ。
「ん?」
「ははあ、何か用があると言っていた訳か。成程成程」
「何を納得してんだよ」
「いやいや」
ラスピーシュは手を振る。
「私が間に入る気はないが、こじれた方が面白いと思うことには変わりない」
「あ?」
「いやいや」
何でもない、とラシアッド王子は極上級の笑みを浮かべた。
「それより、言おうとしたのは、シレキ殿がきているようだねということだ。例の会の話でもあるのかな?」
「へっ? 見えたのか、あんなとこから」
オルフィは驚いた。彼がリチェリンに気づいたのは、身内も同然だからだ。あの高い位置からラスピーシュが中庭を見下ろしたとして、オルフィがいるのは推測がつくとしても、隣にいるのがシレキだと判ったとは。
「見えた? いや、見た訳じゃない」
だがラシアッド王子は否定した。
「前に私が密偵だと言ったが、きちんと訓練をしているのはこのクロシアの方でね。口に出さずに、合図で私にいろいろと教えることができるんだ。いまもそれで知ったんだよ」
「殿下」
クロシアは頭痛がすると言うように目頭を押さえた。確かに、そういうことをぺらぺら喋っては諜報にならないだろう。だが当の王子はどこ吹く風だった。
「もし祭司長殿なりレヴラール殿なりのところに行くつもりなら案内するよ」
「あ、いや。大丈夫」
「大丈夫?」
「あ、えっと、おっさんに教わってるから」
「知っているから」と口を滑らせかけ、何とか言い換えた。
「その話が済んだら、私のところにきてくれないかな」
「……何だよ」
からかわれるのであればご免だ。そんなふうに思ってオルフィは警戒した。
「――大事な話がある」
しかしそのときラスピーシュは笑みを消し、真剣そうな声を出した。
「リチェリン嬢とカナト君とエクール湖の神子。その話だと言えば、君は必ず聞きたいだろうと思うが?」
(第2章へつづく)




