11 爪痕
もう大丈夫、とイゼフが言ったのはピニアに対してであったか、それともヒューデア宛てであったろうか。
もっとも、占い師は憔悴した顔で眠りについていた。彼女に言葉をかけても答えはないだろう。
「何があった?」
改めて神官は剣士に尋ねた。
「急に様子が変わった」
ヒューデアは眉をひそめた。
「ジョリスの話をした途端だった故、彼の死に受けた衝撃を思い出したためかとも思った。だが、彼は生きていたのだし……」
渋面のまま、彼はゆっくりと息を吐いた。
「ずいぶんと怖れていた。彼女にジョリスを怖れる理由はないだろう」
「彼女がかの元宮廷魔術師と手を組み、彼を死地に追いやったのでもなければ、な」
「イゼフ殿! 何を」
「そのようなことはあるはずもない、と言っている」
神官は片手を上げた。
「肩入れしているようだな?」
「何と?」
「このご婦人に」
「……おかしなことを言わないでもらおうか」
違う意味で彼は顔をしかめた。
「彼女はジョリスに強く惹かれていた。俺はそれを知るからこそ、彼女にその悲報を届けにきた。何も彼女のためではなく……俺自身が誰かとともに哀しみたかったからだったが」
ふっと彼は表情を曇らせた。
「彼女といると、ジョリスのことばかり思い出された」
「ジョリス殿の?」
「ああ」
ヒューデアは遠くを見るような眼差しをした。
「……女には親切にするように、というのは判らなくもなかった。女は男より身体が弱いのだし、子を生むという大事な使命を持っているのだからな」
真顔で彼は言った。
「だが、ふと思い出されたのだ。ジョリスがピニア殿を送り迎えしていたときの様子を」
目を閉ざし、ヒューデアはまぶたの裏に何かを見た。
「彼女と歩くとき、ジョリスは実に自然に先導し、彼女が歩きやすいように心がけていた。ピニア殿だからという訳でもなかろう、彼は誰にでも……たとえば小さな子供にもそんなふうに」
少し沈黙し、ゆっくりとヒューデアは目を開いた。
「ささやかなことだ。だが、彼はそうした、ささやかなことにもいつも気を配っていた。騎士には厳しい規律があると聞く。しかし彼はそれを多ただ闇雲に守るのではない、何故そうした決まりがあるか、どう行動することが求められているのか、常に考えていた。かといって自分だけの考えには飲み込まれず、常に、周りをも見ていた」
静かな語りに神官は黙っていた。
「俺は自分と、キエヴ族のことで精一杯だ。アミツを見る者となってから、長とは別の意味で一族を導く責任を負うことになり……精一杯で」
「ヒューデア」
イゼフは気遣わしげに青年を見た。
「ジョリス殿を尊敬し、憧れ、彼のようになりたいと思うことと――彼になろうとすることは違う」
「何?」
思いがけないことを言われたと言うようにヒューデアは目をぱちくりとさせた。
「無論、そのようなことは判っているが」
「ならば、よい」
イゼフは少し表情を和らげたが、すぐに引き締めた。
「彼女の傷は深い」
眠るピニアに視線を戻し、彼は呟くように言った。
「傷、とは」
「――私が語ることではないが、彼女が語ることもないだろう」
神官はそう言った。
「もしも、これから誰かが彼女を支えようと思うのであれば、ただ全てを受け止めることだな」
「何を……」
「少し、言い過ぎたか」
イゼフは首を振った。
「だが、何故私を呼ぼうと考えた? 適切ではあったが」
「あのような瞳を見たことがある。キエヴの集落が襲われたあとだ。怖ろしい目に遭った子供が、その後しばらく、何かをきっかけにその恐怖を思い出しては錯乱した。まるで正気を失ったかのような瞳で」
ヒューデアは息を吐いた。
「あるとき気の毒にも、舌を噛んで死んだ。自死というような気持ちではなく、事故だったのだろうが……」
「そのようなことがあったか」
イゼフは痛ましそうに眉をひそめた。
「まさしく、彼女はその状態にあった。ああした状態に陥れば、落ち着くのをひたすら待つ以外には神術しか手はない。魔術で無理に眠らすようなことも可能だろうが、悪夢にうなされるだろう」
「彼女に……何が」
「私には言えぬ、と言った通り」
「――いや」
ヒューデアは首を振った。
「いくらかは、推測がつくこともある」
「そうか」
「だが、それだけでもないような……」
彼女にいまだ恐怖を振りまく男は、死したとは言えどもリヤン・コルシェント。あの男に違いない。そのことは確信できた。
では何故、彼女はジョリスの名をきっかけに忌まわしい記憶を呼び起こしたのか?
コルシェントの残した爪痕は、しかし善良なヒューデアにはとても思いもよらぬことであった。




