10 余計なことを
とんとん、と礼儀正しい扉の音に占い師は顔を上げた。
「どうぞ」
使用人ならば戸を叩きながらどんな用があるかを知らせる。だがその声がなかったということは、訪問者は滞在中の誰かだ。
「失礼する」
扉を開けて入ってきたのは案の定、ヒューデア・クロセニーだった。
「どうなさいました?」
ピニアは少し驚いた。
「オルフィ殿との訓練はお済みに?」
「今日は仕舞いだ」
白銀髪の剣士は答えた。
「少々、頼みごとがある」
「何でしょう」
彼女は首をかしげた。
「私にできることでしたら何なりと」
「キエヴの長に宛てて文を代筆してもらいたいのだ」
「お安いご用です」
ピニアは微笑んだ。
「読む方ならばいくらかできるが、書くのはどうにもな」
剣士は肩をすくめた。
「どのようなことを?」
占い師は立ち上がって棚の引き出しから便箋や筆を一式取り出した。
「長の言葉を伝えるだけの用事が、ずいぶん長引いてしまっている。加えて、以前の触れの話もキエヴまで届いているはずだ。いまや撤回されたとは言え、その前に俺が何かしでかしたのでは、とでも案じられているかもしれない」
少し口の端を上げてヒューデアは言った。彼がジョリスを慕っていることはもちろん故郷の者たちもよく知っている。
「詳細は書に記すには不向きだろう。どうかただ、俺が無事でいるということと『黒き剣』を追っているということを伝えてほしい」
「黒き剣というのは、黒騎士の」
「ハサレックのことだ」
ヒューデアは明確にした。
「もっとも、その名を記す必要はない。誰それであるということは、長にもキエヴにも重要ではないからな」
「ほかには?」
ピニアは着席して書の準備をしながら問うた。
「それだけで充分だ」
「そうでしょうか」
少し首をかしげて彼女は言う。
「何?」
「ヒューデア殿の近況をお伝えするという意味合いでしたら、もう少し……」
彼女は考えた。
「たとえば、ご友人のことなどをお知らせしては?」
「……友人?」
「オルフィ殿ですとか、リチェリン殿ですとか」
ピニアは言った。
「それこそ名前を記さずともよいとは思いますけれど、ヒューデア殿がたったひとりで奮闘しているのではないと判れば、故郷のみなさまも安心なさるのでは」
「そう、いうものか?」
思いがけないことを聞いたと言うようにヒューデアは目をぱちくりとさせた。
「私は母に時折手紙を書きます。私はずっと帰っていませんし、女ですからヒューデア殿とはいろいろ異なりましょうけれど、母から返ってくる手紙にはよく『まだ独りなのか』というようなことが書かれていますわ。……これは少々、話が違いますけれど」
こほん、とピニアは咳払いをした。
「母を安心させたい気持ちはありますが、こればかりは難しいですわね」
「そのようなことはないのではないか。その」
珍しくもヒューデアは少し詰まり、こちらも咳払いをした。
「貴女ほどの、ご婦人ならば」
「恋人や妻に、魔力で何でも見透かされたい殿方はいらっしゃいませんわ」
笑ってピニアは言った。
「それに……」
そこでふっと表情を翳らせる。
「――おそらく私は生涯、星を読むことに人生を費やすでしょう。それが私の繋がれた〈定めの鎖〉」
「男に何もやましいことがなければ、たとえ全てを見透かされたところで困ることはないはずだが」
その表情の理由が判らぬまま、剣士はまっすぐなことを言った。
「それは理屈ですわ、ヒューデア殿」
彼らの年齢はあまり変わらなかったが、ピニアは首を振り、まるでヒューデアがずっと子供であるかのように諭した。
「そのように強い意志を持つことのできる方は、なかなかいらっしゃらないものです」
「……か?」
ヒューデアの声は小さく、ピニアは首をかしげた。
「はい?」
「貴女がいま思い浮かべたのは、ジョリスだろうか?」
静かに口に上せた名は、しかし驚くほど顕著な反応を引き出した。
ピニアは傍目にも判るほど顔を青くし、手にしていた筆を落としたのだ。
「すまない」
素早く彼は謝った。
「余計なことを言った」
確認するまでもないことだった。恋心を隠そうとしている――たとえ隠せていないとしても――婦人の心を暴くような真似は礼儀にもとる。
「ジョリスには会ったか?」
ふと思いついて彼は尋ねた。
「長の面会は禁じられているが、顔を見るくらいのことであれば、貴女ならば許されるはずだ」
ピニアが遠慮しているのではないかと考え、彼は助言をした。
「本当に……驚いたな」
遠くを見る目つきでヒューデアは呟いた。
「彼が死んだものと考えていた間も、コズディム神殿を訪れているときに思ったものだ。不意にジョリスが扉を開けて『遅れてすまなかった』などと謝るのではないかと。それは夢想だと打ち消していたが、神は彼を見捨てなかった」
目を閉じてそっと祈り、再び顔を上げたとき、彼は目を見開いた。
「ピニア殿?」
女がそこで涙でも流していたなら、それほど驚くことはなかっただろう。安堵のあまり泣いてしまうということもあるものだ。
そうであれば、彼の言葉で泣かせてしまったという罪悪感めいたものは抱いたかもしれないが、目を見開くようなことはなかっただろう。
ピニアは顔面を蒼白にしたまま、かたかたと震えていた。
「どう、された」
思わず彼は立ち上がり、彼女のもとに駆け寄った。
「もしや、体調でも」
ずっと不調として休んでいたピニアだ。あれはジョリスの訃報に哀しみを深くしただけではなく、本当に――それが原因だったとしても――身体を悪くしていたのではと、彼がとっさに思ったのはそうしたことだった。
「休むか。使用人を呼ぶなら」
案じて彼はピニアの肩に手を置いた。
「い、いやっ!」
だがそれは激しく振り払われた。
「やめて……触らないで!」
「す、すまない」
ヒューデアは戸惑った。
「人を呼ぶか。女がいいか」
「やめて……こないで……」
彼女は彼の言葉が聞こえないかのように身体を抱いて震え続けた。
「嫌……もう、やめて下さい……どうか……」
「ピニア、殿?」
それがすぐ近くにいる彼に向けられた言葉ではないこと、ヒューデアも判った。しかしそれ以上のことは――幸か不幸か――判らぬまま、彼は困惑した。
「やめて……」
彼女の瞳はどこか尋常ではない色をまとっていた。目の前にあるものを見ていない、或いは目の前にはいない誰かを見ていた。ヒューデアはきゅっと唇を噛んだ。
「誰か! いないか!」
彼は大声を出した。たまたま近くを通ったと思しき使用人が慌てたように姿を見せる。
「は、はい。どうなさいまし……」
「お前の主人を頼む」
「え?」
「すぐに戻る。おかしな真似をさせぬようにしろ!」
「え、あの……」
気の毒に使用人が目をぱちくりとさせる間にも彼はその脇をすり抜け、一路コズディム神殿へと走った。




