06 いったいこれは
頭のなかは真っ白だった。怖ろしい、逃げ出したい、動けない。
「うあ……」
言葉にならない声が洩れる。
逃げ出したい。だが、足が。
その内に黒衣の剣士は無言のまま、黒い剣の切っ先をオルフィに向けた。
(これは夢だ。悪夢に違いない)
彼はまたしても思った。いや、願った、と言うのか。
現実であると知っている。ジョリスとの出会いが、タルーの死が、現実であったように。
黒い剣士は、ぴたりとオルフィに狙いを定めたまま、やはり何も言わなかった。
「な……」
声がかすれる。
だがかろうじて声を出せたことにより、少しだけ金縛りが解けた。
「――何だよ! 俺はとっくに成人してる、お前の獲物じゃないだろ!」
もちろん未成年なら襲っていいということではないが、噂では十五歳前後の少年少女だけが狙われると。
黒騎士は、何も言わない。
いや――そこで初めて、兜の向こうから声がした。
「……こせ」
「何?」
「あれを寄越せ」
怖ろしいほど低い声。獄界から声が届いたならこのようにも聞こえようか。
「か、金なんか、ない」
オルフィは切れ切れの声で返した。黒騎士が金を盗んだとか奪ったとかいう話は聞かないが、剣を突きつけられて寄越せと言われれば、それは通常、金品だ。
「持っていることは判っている」
「なっ、何を」
意味が判らない。恐怖と不気味さはいや増した。
「そこにあるのは判っている。寄越せ」
黒い剣先がオルフィの胸からのどを目指すように上がってくる。若者は恐怖のあまり気が遠くなりそうだった。
「……が、する」
低い声は聞き取りづらい。もとより恐慌状態に陥りかけているオルフィは、もっと明瞭に語られたところで何を言っているのか把握できなかったかもしれない。
「あの男の、気配がする」
「何、だって」
「寄越せ。さもなくば」
黒騎士は一歩退いた。もっともそれは、オルフィから遠ざかるためではない。
「殺す」
踏み込むための距離を取ったのだ。何の心得もなくとも、それははっきりと判った。
「な、何を言ってるのか判らない!」
オルフィは声を裏返らせて叫んだ。
「あの男って誰だよ。俺は、黒騎士に狙われる理由なんか何にも」
そう言ってから、ぎくりとした。
彼が「ただの田舎者」であったのは、今日の昼間までのことだ。
それは彼自身の実力でも何でもなかったが、いまのオルフィには、昨日までの彼にはなかったものがある。
(ジョリス様)
〈白光の騎士〉との邂逅。黒騎士はそのことを言っているのか。
あの男とは、ジョリス・オードナーのことか。
(だとしたら)
(渡すように言われているのは)
ジョリスから預かった荷にほかならない。
「わ、渡せるものなかない!」
怖ろしかった。だがオルフィははっきりと言った。
「お前に渡すものなんか、あるもんか!」
声を限りに彼は叫んだ。もっともその声は酷く震えていて、とてもではないが「勇気ある」という感じはしなかった。
黒騎士はまた黙り、計るようにオルフィを見た。
足が震える。崩れ落ちてしまいそうだ。
だが若者は必死で踏ん張った。
リチェリンにも預けられないと考えた、ジョリスの荷。約束したからには誰にも渡せない。
たとえ一命に換えても。
騎士の誓いのように、オルフィは思った。
(負けるもんか)
(俺は、ジョリス様と約束したんだ)
(この荷が何なのか、俺は全然知らないけど)
(子供殺しの悪党なんかに渡せるはずがあるもんか)
怖ろしいのだ。本当に。
だがこの思いもまた、本当だった。
たとえ、一命に換えても。
兜に隠されて、黒騎士の表情は判らなかった。オルフィの反抗を苛立たしく思っているのか、それとも嘲笑っているのか。或いは何も思っていないのだろうか。
さああ、と風が吹く。ざわざわと木立が揺れる。ひとつに結わえた若者の髪が乱れる。かつん、とかすかに飾り玉がぶつかって鳴った。
オルフィは拳を握り締め、何かに――神に、だろうか――必死で祈った。
(どうかお守り下さい)
(ああ、違う)
(どうか、守らせて下さい)
それは彼自身の身を守ってくれという祈りではなかった。
ジョリスから預かった荷を。
ジョリスとの約束を。
守らせてほしいと。
ふっと身体が暖かくなった。いや、そうではない。彼の持っている何かが暖かくなった。だが緊張しきったオルフィには意識できなかった。
「何……?」
黒衣の剣士は、小さく呟いた。
「まだ……時を待て、と……?」
「え……」
すっと、暗闇が現れた。
いや、黒い剣士が、消えた。
「い、いなくなった……?」
がくりとオルフィの膝が崩れた。緊張の糸が切れ、頑張っていられなくなったのだ。
もしもここで黒騎士が再び現れて剣を振るおうとしたら、オルフィは自らをかばおうと手を上げることすらできず、斬り殺されたに違いない。
だが、いなくなった。
確かに。
「はは、は、ははは」
そうと判ると、引きつった笑いが洩れる。
「た、たす、助かった」
膝が崩れたのではなく、腰が抜けたのだろうか。オルフィは、もし誰かが聞いたならぎょっとするような神経質な笑い声を上げながら、その場に座り込んでいた。
クートントがぶるると鳴いてオルフィを案じるかのようにする。
「ああ、大丈夫だ。大丈夫だよ、クートント」
驢馬に言いながら自分にも言い聞かせる。呼吸を整え、ゆっくりと立ち上がる。それだけのことにずいぶんと時間がかかった。
「はあああ」
そして大きく息を吐いた。
「全く、何て日なんだ」
(俺のこの十八年間を全部合わせたより、すごい一日だ)
オルフィはそんなことを思った。
だが、この運命の日は、まだ終わりではなかった。
〈名なき運命の女神〉は、まだ彼に悪戯を仕掛けることをやめなかった。
(黒騎士)
(どうしよう。一旦、砦に戻る?)
戻るだけ戻って警戒を促してもらう方がいいだろうか。
(でも、俺が砦に行っている間に、向こうがどこに移動するかなんて判らない)
この場所に兵士を呼ぶことは無意味だし、それだけの時間があれば充分すぎるほど遠くまで逃げられるだろう。
(それよりは近くの村に警告をした方がいい)
この付近ならばヌール村に、サーマラ村。ヌール村にはまだ人々が眠りきらない内に着けるだろう。黒騎士を見たと知らせて、子供たちを守るように言うのだ。チェイデ村の噂が伝わっていれば、本気にしてもらえるだろう。ヌール村には馬車を操る者がいる。砦にはその人物から知らせてもらえばいい。
そうと決めるとオルフィはひとつうなずいて御者席に上った。
それから改めて、腰にあるものに触れる。
(あいつ、これを欲しがってたんだろうか)
(十中八九、そうだな)
それ以外には考えられない。オルフィは厳重に結びつけた荷布をほどいた。
(いったいこれは、何なんだろう)
覗くつもりなどはなかった。
ジョリスは、決して中身を見るなと言った。そのことはオルフィもきちんと覚えている。
だというのに、彼は気づけば布を開き、細長い銀色の箱を目にしていた。
「すごい……きれいな細工だ」
呆然と彼は呟いた。
これほど細かい装飾を見たのは初めてだった。
何かの植物を題材にしたものだろうか。蔦のような柄が箱全体にあしらわれている。蔦は規則性を持って前面から側面、背面へと回り込み、まるで箱そのものを守るかのようだ。蓋の部分にはオルフィの知らぬ紋章が鎮座していた。
「これ、箱だけでいくらするんだろう」
下世話とも言えることを考えてしまったが、致し方ない。オルフィが何年かかっても稼げないような価値のある箱に違いないのだ。
(こんなすごい箱が守っている)
(――中身は)
手が、蓋に伸びた。
彼ははっとして、ぶんぶんと首を振る。




