07 愛情と言ってもいい
「それならそれなりに、精一杯生きてみせましょうか」
ラバンネルは軽く手を振った。するとその手には、細い錫製の杖が現れる。
「人の子を守るのは人の子である――そんな言葉が八大神殿にはあったかと思います」
魔術師が神殿の話をするのは珍しかったが、奇っ怪だと言うほどではなかった。
「ヴィレドーン。『それ』の言葉に耳を貸してはなりません」
「あはは、魔法使い君。そうした忠告が効くのは、契約を結ぶ前までだね!」
気の毒だけれど、と加わった。
「いまじゃ、どんな真摯な言葉も意味がない。彼の心を動かしたとしても、彼の契約は消えない。君が彼に張り付いて、その生涯、彼を僕から隠す? そうしたいならそれでもいいね、でも何度も同じ手が通用すると思ったら大間違いだ」
「私が庇護する必要はないでしょう。手助けはするつもりですが、それだって必要かどうか」
「ふうん?」
「ヴィレドーンの底力を信じています、というところですかね」
「あはは、魔術師らしくないね。気合いで契約が破れるとでも言っているみたいだ」
「そうあってくれればいいとは望みますが、この上なく不可能に近いことは判っています」
「『不可能に近い』じゃない、『不可能』だよ」
ニイロドスは片目をつむった。
「意外と夢見がちなんだねえ、大導師様ともあろう者が」
「そうでもないですよ」
魔術師は肩をすくめた。
「たとえどんなに僅少であろうと、可能性は必ずある。これは魔術師がよく言うことのひとつです」
「成程、実は魔術師らしかったということ」
悪魔は口の端を上げた。
「何でもかまわないよ、どう思おうと君たちの自由だ。ただ、どんなに強く思ったって天地がひっくり返らないように、契約も覆らない」
「どうでしょうか」
ラバンネルは首をかしげた。
「太古には、天地だってひっくり返ったと言いますよ」
「あは、もしかしたら〈コルファセットの大渦〉ができた経緯の話でもしているの? あれは、ひっくり返ったのは大地であって、天地じゃないね」
「そうですね。ですが私が言っているのはそのことじゃありませんよ」
「……ふうん?」
珍しくと言おうか、悪魔は少々興味深げだった。
「何の話をしているのか、聞いてみようか」
「私が語らなくても、ご存知だと思いますよ。家畜たる奴隷たちが主人たちを影の国に追いやった物語のことは」
「……あっは」
ニイロドスは手を叩いた。
「驚いた! 正直に言って、驚いたよ、いまのは! それは人間の知る話じゃない。もしかしたら君は、本当に人間じゃないのかな?」
「幸いにして、人間だと思いますね」
「だろうね。君から人外の気配はかけらたりとも感じない。君は純粋に人間だ。なのにどこからその話を?『ニンゲン』に話す奴なんか、いないと思うけど」
「さあ。いたんだ、ということでいいんじゃないですか?」
答える気はない、とばかりに魔術師は返した。
「ふうん」
二ロドスは三度呟いた。
「ま、いいか。〈兔を仕留めた狐を捕まえる〉というのは、運がいいことを示す場合もあるけれど、多くは困難なこと、結局両方逃してしまうことを言うんだったよね。僕も気をつけるとしよう」
笑いながら言うのは、軽口のつもりだからと思われた。人間の言葉を人ならぬ自ら――それも「高位」の存在である――に当てはめるというのは、きつい冗談だろう。
「いまの僕の興味は、ヴィレドーン、君だけにある」
「どうかな」
ヴィレドーンは口の端を上げた。
「手に入れたつもりの獲物が逃げ出した、そのことに執着してるだけなんじゃないのか」
「そうかもしれないね。確かに、悔しいもの」
さらりとニイロドスは言った。
「もっとも、執着だって興味の一種だよ。愛情と言ってもいいね」
「お断りだな」
「つれないね。でも口ではどう言ったって駄目だよ。君はもう僕のものなんだから」
にいっと悪魔は、人の顔では有り得ないほど口角を上げた。
なまじ人の姿によく似ているからこそ、それは不気味であった。
「邪魔だね。ヴィレドーンを『そちら』にとどめようとする英雄たち。ラバンネル。それに」
ニイロドスは視線を彼らの後方にやった。
「アバスター」
戸惑いがちにヴィレドーンは呼んだ。すっと剣士は薄闇のなかから姿を見せた。
「あんたまで」
声は少し呆れ気味にもなったろうか。
「言っておくが、俺は純粋に、お前さんをひとりにしておこうと思ったんだぞ。ひとりで考えごとをしたいときってのはあるもんだからな」
肩をすくめてアバスターは言った。
「私が彼を呼んだんです。いてもらう方がいいと思いまして」
ラバンネルは挙手などする。
「あはは」
悪魔は笑った。
「もう一戦やろうって?」
「俺はそれでもかまわんが、そっちの方では困るんじゃないのか」
剣士は嘯いた。
「かまわないって? 本当に?」
見開いた悪魔の目が、ちらりと、赤く燃えた。
「そう……じゃあもう一度、やろうか? もしも彼を巧く取り込んだつもりでいるのなら――その誤解を正してあげる」




