04 加護をもたらすことを
エクール湖の畔にある村は、いつもと同じように彼を出迎えた。
初めて訪れた者は、誰でも思うだろう。寂れていると。哀れな貧村だと。
確かに、栄えていると言うにはほど遠い。世辞でだって言えまい。だがここに生まれ、育った者ならば知っている。湖神エク=ヴーは遠い昔と同じようにこの〈はじまりの地〉と、そしていまはナイリアン国と呼ばれる地域を守っていることを。
かつての隆盛とて、村の者たちが望んだのでもない。彼らは力で支配していったのではなく、人々が湖神の加護を求めたのだ。
だがそれを気に入らない者も出るようになり、やがてナイリアンの民が、戦を起こす。
その当時、湖神とその神子は戦の兆候に気づいた。
戦輪の使い手たちは対抗したがその数は少なく、もともと獲物を狩るための武器でもあれば、対人には向かない。単純に、戦いの技を持たぬ者も多かった。
ナイリアンの「蛮族」たちは多人数でエクールの戦士を囲み、力なき人々を守ろうとする彼らを確実に死に至らしめていった。
湖神が目覚めていたなら、そのような事態にはならなかっただろう。だがエク=ヴーは数百年に一度の眠りについており、その強大な力は振るわれなかった。「蛮族」たちはそれを知った上でことを起こしたのでもあっただろう。
やがて、犠牲を憂えた長老が自らの身を差し出すことで、戦は終結した。
「蛮族」は〈はじまりの地〉にまで魔の手を伸ばそうとしたが、そこで目を覚ました湖神が、それを許さなかった。
〈はじまりの地〉は守られた。「蛮族」もその地の蹂躙は諦めたが、争いをやめさせようとした長老の遺志を利用して、いいように支配下に入れてしまった。
その頃にはもう、純粋なエクールの民はごく少なくなっていて――彼らは畔の村と、そして北のやせた土地と、それから東部に逃げ落ちた者たちだけになってしまった。
遠い過去の話だ。
それはエクールの民たちには伝えられる歴史であったが、彼らはそれを憎しみや恨みの歴史とはしなかった。ただ、こうしたことがあったとだけ。「蛮族」と言うのも、ナイリアンの歴史ではエクールの民たちがそう呼ばれていることを知ったヴィレドーンが皮肉混じりに思うだけで、そのように教えられたのでもない。
だからヴィレドーンも、ナイリアン王家に何の含みも持っていなかったし、王に仕えられることを誇りに思った。
しかしそれも、もう終わりだ。
畔の村に対する物騒かつ浅慮な殲滅計画を知ったときから、彼の忠誠心は消えていた。
後悔は、ない。
ただ、ファローを死なせずに済むことができたなら、とは思った。
それは即ちヴィレドーン自身の死を意味したかもしれない。友の暴走に、ファローは――〈白光の騎士〉は騎士の使命を果たしただろうから。
「ご無沙汰をしております」
ヴィレドーンは長老を訪れ、丁重に挨拶をした。
「メルエラのことは……」
それから、死んだ神子の話をしようとした。
だが何を話してよいものか判らない。思い出せば、狂おしいほどの怒りと憤りが湧いてくる。
「湖神とて、守り切れぬことはある」
長老が先に口を開いた。
「或いは、それが定めであったなら」
「定めですって」
彼は唇を噛んだ。
「忠告をないがしろにされた挙げ句、突き落とされるのがメルエラの定めだったと言うのですか」
「気の毒なことだった」
あくまでも長老は静かだった。
「あの娘は、首都を訪れれば自分の身に何が起こるか、それを知っていた。その上で、出向いた」
「なにを……」
彼は息を呑んだ。
「何とかしてお前の運命を変えたかったのであろう。不可能と判っていても」
「俺の……?」
「知っていた。メルエラは。お前が起こそうとしている――裏切りを」
その言葉にヴィレドーンは黙った。黙らざるを得なかった。
「とめたかったのだろう。どうしても。だが不幸にも、あの娘の死こそがお前を動かした」
「俺は……この村を守るために……」
「滅びたのであれば、それも定めであった」
「馬鹿なことを」
彼は立ち上がった。
「何の咎もない村の者たちの血が流されることをあなたは甘受したと言うのか!」
「『滅びたのであれば』と言った。遠い過去にも、我らは滅びを免れた。エク=ヴーは我らを守るだろう」
「だが、いまも湖神は眠りについている!」
彼は指摘した。
「それでも目覚めたはずだったと? 俺のしたことは無駄だったと!?」
「そうは言わぬ。だが、ほかにもやり方はあったはずだ」
「はっ、湖の手前で剣をかまえ、兵どもを蹴散らせばよかったか。だがそのようなことをすれば、俺が謀反を企んだとされるだけだ。いや、『俺が』というのは問題じゃない」
国王を殺害した〈漆黒の騎士〉ヴィレドーン・セスタス。その事実には何の変わりもないし、否定する気もない。
「この村が謀反を企んだと……〈ラ・ザインの証立て〉が調ってしまう。エク=ヴーがそうしたところで同じだ。俺が狂気の騎士となって王をとめるしかなかった!」
「お前の苦悩は、理解している」
長老は静かに告げた。
「村を守るため。その言葉に嘘偽りがないことも判っている。だが」
ゆっくりと老人は首を振った。
「何故、それを選んだ」
「何を……」
長老が何を言っているのか、何を言われているのか、ヴィレドーンもまた理解した。
知っているのだ。彼は。メルエラも、そうだったのか。
村を守るために、彼が売り渡したもの。
「だが……よく帰ってきたな」
長老は目を細めた。
「いまは、休め。エク=ヴーがお前に加護をもたらすことを信じて」
自分には、湖神の加護を受ける資格などない。彼はそう思った。
だがここで口にしなかったのは、長老の気持ちをむげにしたくなかったのと同時に、湖神は全て判っているだろうとの思いからだった。




