12 青年
夕日が大きな窓を血の色に染めていた。
だだっ広い部屋には小隊のひとつも整列できそうであったが、そこにいるのはたったのふたり。
赤い窓を背にマントを身につけて立っているのは、すらりとした青年だった。緑に金糸で細かい刺繍のされたマントは重厚な感じではなく、むしろ薄手で軽やかな感じがした。だが質のよさは触れずとも判るほどであり、派手派手しいところがなくとも素晴らしい逸品だった。
日にきらめく栗色の髪はさらさらとしており、もしも長く伸ばしたら女たちが羨むような美しい髪になりそうだった。青みがかった灰色の瞳は誠実そうであり、優しげに微笑めば不思議な暖かさを醸し出しそうだ。
ただ、いまそこに柔らかい色は浮かんでいない。
その目はただまっすぐ、彼の背後から入り込む光が照らしている、相手の男を見ていた。
身じろぎもせずにその視線を受け止めている相手は、青色の衣服を身につけていた。それは見るからに制服といった様子で、何も知らなくても正規の兵士、それも何らかの地位がある者と推測することができた。
ましてやその存在は近隣諸国にまで名高い。
その地位の銘や人物の名前までは知られていなくとも、ナイリアンの紋章が入ったほぼ単色の制服を身につけている者がナイリアンの騎士であるというのは、多くの者に想像のつくことだった。
「やれやれ」
〈青銀の騎士〉と呼ばれていた男は肩をすくめた。
「もう少し引っ掻き回してやる予定でしたがね、大物が絡んできちゃ潮時だ」
ふんと鼻を鳴らしてハサレックは首を振った。
「直接出てくる気はないようですが、少しおとなしくしていた方がよろしいかと」
「ふふ……もとより、性急に動く気はない」
青年は落ち着いた声で言った。
「貴殿は十二分に働いてくれた。しばらくは休んでいただいて結構だ」
「そいつは」
ハサレックは片眉を上げ、口調を変えた。
「解雇の婉曲表現か?」
「まさか」
指の長い手を振って青年は笑った。
「感謝しているというのは本心だ。貴殿を賓客として遇そう。使用人も選りすぐりの者をつけようではないか。美しい少女……もし少年の方が好みであれば、それでも」
「いやいや」
彼は苦笑した。
「ナイリアンの騎士を廃業しても、心根はあまり変えないつもりでいるんでね」
「そうか」
ふふ、と青年は面白がるようだった。
「気が変わったらいつでも好きにしてくれていい。差し当たっては二十歳前の美少女というところでどうかな」
「その美少女が間諜でなければ……いや、別にそうだとしてもかまわんか。俺には隠すことはないんだから」
「閨での事情も?」
「お聞きになりたけりゃ、どうぞ」
口の端を上げて騎士は答えた。
「冗談だ。他人の夜の趣味に興味はない」
笑って青年は手を振った。
「いまは、貴殿から直接聞きたいことがある」
「もちろん、何でもお話ししよう。何からお伝えしたらよろしいか?」
「『大物』から」
「成程」
ハサレックはうなずいた。
「アバスター。ラバンネル。その両者」
「成程」
簡潔な返答に今度は青年がそう言った。
「だが実際に姿を見せた訳ではないだろう?」
「それは、さすがに。しかしその志と力を継ぐ者が」
「確かか?」
「アレスディアはその象徴ということだ」
「では以前に報告のあった若者が」
「ああ」
にやりとしてハサレックは両腕を組んだ。
「ヴィレドーンだ。間違いない」
「ナイリアンの騎士として名を馳せ、そして『裏切りの騎士』と呼ばれて成敗された……それだけでも十二分に興味深い人生だが」
ふふ、と青年は笑った。
「彼は死んでいなかった。悪魔の力か、それとも大導師と呼ばれた男の力なのか、はたまたそのふたつが混じり合ったためか――赤子の身体となり、記憶をなくしてもう一度、人生をはじめた」
「どれだけ強力な魔術師であろうと、人間の技とは思えないな」
「同感だ。そのことについてニイロドスは何か言っていたか」
「いや、何も」
ハサレックは首を横に振った。
「あれは自分に都合のいいことしか言わない」
「そうであろうな」
当然のように青年は返す。
「悪魔を信頼するなど愚かなことだ。かと言って利用できると思うのも愚か」
「それは、コルシェントのことを言っているのか?」
「彼もその陥穽にはまった。だが嘲笑いはせぬ。古代から数え切れぬほどの人間が悪魔の毒牙にかかり、獄界に連れ去られていった。彼らは強い存在だ。対等にやろう、対等にやれると人間に錯覚させるのも彼らの罠」
「罠にかかった者を笑わないとあんたが言うのは、それだけ罠が巧妙だから、か」
「その通り」
青年は答え、かすかに笑った。
「『私は騙されない』……そんなふうには言わない。その自信こそ陥穽だ」
「悪魔相手には慎重にし過ぎるくらいでちょうどいい、と」
「ちょうどいい、とも言わぬな」
笑みを浮かべたまま青年は返した。
「だが慎重にし過ぎるくらいでよいことは確かだ。もっとも、怖れおののいてろくに身動きも取れぬようでは本末転倒」
「大胆、かつ慎重に?」
皮肉めいて、または冗談めかしてハサレックは言った。
「そのようなところだ」
そこで青年はくすっと笑った。それは相手に少し気を許したかのような、親しみを感じさせるものだった。ハサレックは片眉を上げた。
「何か可笑しかったか?」
「いいや」
何でもない、と彼は手を振った。
「ヴィレドーンの話をもう少し聞こうか」
「いまはアイーグ村のオルフィと名乗っている。当分、いや、『この一生』はその名前で行く気だろう。記憶がない内は、波瀾の人生を送った……送っている星の持ち主とも思えぬ凡庸ぶりだったが、ニイロドスが揺さぶり出してからはなかなか面白い」
思い出そうとするように、「黒騎士」はあごに手を当てた。
「『ヴィレドーン』そのままというのは、少々危険だな。どんな事情があったところで……」
そこでハサレックはふっと言葉を切った。
「『親友と国王を手にかける人物なんて』?」
その続きは青年が口にした。
「俺は人のことは言えなかったか」
ふん、と彼は笑ってみせた。
「自虐的にならなくたっていい」
青年は首を振った。
「ここでは誰も貴殿を責めない」
「それは、あんたが怖いからじゃないのか?」
唇を歪めて、ハサレック。
「俺はここであんたの庇護下に入ることにより、外からの糾弾を受けずに済む」
「でもそれはナイリアンでも同じことだっただろう? コルシェントの命令を受ける立場にあったままであれば」
「そうだな」
騎士だった男はうなずいた。
「あのままであれば。だがそれは無意味な仮定じゃないか?」
「そうだな」
青年も言った。




