13 薄氷の上
最も緊張していたのはリチェリンであろう。
彼女にしてみれば、王城など遠くから眺めるものでしかなかった。いや、南西部では話に上がることすらなく、もし上がったとしても想像するだけのものでしか。
オルフィは一応、三度目だ。一度目はサレーヒに連れられて兵舎に行っただけ、それも衝撃の連続で内部の様子などろくに覚えていないし、先ほどの訪問は気がつけば箱のなか、魔術で移動させられて別の部屋、退出も魔術という荒技の連続だ。「王城を訪れた」という感じはない。
だが、彼の記憶には、ある。
初めてではない。よく知っている。ナイリアン王城内のことは。
古い城は補修を繰り返されていたが、それでも三十年前に比べて見違えるほど変わるようなことはない。
しかし、広い廊下――五人くらい横に並んでも余裕で歩けそうだ――を使用人の案内で進む間、オルフィはリチェリンと同じように押し黙っていた。
城までの途上では気軽に話もしていたが、城に一歩入ってからはオルフィとリチェリンは完全に無言、ラスピーがピニアに話しかけ、イゼフとシレキがぽつぽつ言葉を交わすという感じだった。
ピニアはイゼフからコルシェントの死を聞き、複雑な表情を見せていた。確かに呪縛が解けた感覚はあったとのことだが、いかに非人道的な扱いを受けたとは言え人の死を喜ぶという気質が彼女の内にはなかったせいか。或いは、自分の目で見た訳でもないから信じがたい、ということもあるのかもしれない。
しかしながら、ラスピーと話している彼女の表情は少し和らいできていた。青年は相変わらず散歩がどうとか戯けた話をしているのだが、それが却って功を奏したのかもしれないとオルフィは思った。
一方でイゼフとシレキは、真剣な話をしていた。と言ってもあまり深い話にはなっていない様子だった。互いに探ってでもいるのか、はたまたこんな落ち着かない状態で詳細を語り合っても無意味だと思っているのかまではオルフィには掴めなかった。
(ともあれ、これだけの面子を集めてレヴラールか、それとも祭司長がどうしたいのか、だな)
(おっさんが警戒していないところからすると、俺を罪人として捕らえようって企みはない、少なくともおっさんはないと判断してると見ていいだろう)
彼をもし籠手の件で咎める気なら、リチェリンやピニアまで呼ぶ理由はない。
(コルシェントやハサレックの件に関わるんだろうが、俺らなんかを呼ぶにはまだ早いんじゃないのか? 王子や祭司長が相談して方針を決めてからだろう)
(……口止め、か?)
殊、ハサレックの所行に関しては事実を全て公表するのは躊躇われるだろう。劇的に生還したはずの〈青銀の騎士〉が悪党だったなどという知らせがあれば、人心は大いに惑う。それくらいのことは彼にだって想像がついた。
(何も言いふらすつもりはないが――)
(……えっ?)
そのとき彼が驚いたのは、不意に彼の手が握られたからだ。
「リ、リチェリン?」
「ご、ごめんなさい。私、何だか、怖くって」
小声で彼女は囁いた。
「ああ、そうか」
緊張しているのだ、と気づくと同時に、気づいてやれなかった自分に不甲斐なさを感じた。
「大丈夫」
きゅっと彼は彼女の手を握り返した。
「何も怖くない。俺がいるよ」
「オ、オルフィ」
リチェリンは頬を赤く染めていた。
「ごめんなさい、情けないわね、お姉さんとして……」
「姉だとしたって、不安なときは不安だって言っていいじゃないか。だいたいリチェリンは本当の姉って訳じゃないんだし」
もう少し強く、彼はその手を握る。
「それに弟扱いより、頼ってほしいかな。好きな女の子にはさ」
「えっ?」
「『えっ』て」
オルフィは苦笑した。
「嫌だなあ。聞いてなかったのかよ。さっきも言ったのに」
「さっきって、あ、き、聞いてたけど、でも」
「はは、ごめんな。迷惑になったらいけないと思って言わないでおくつもりだったんだけど、つい」
笑って彼は言った。
「でも、どうしてほしいとかはないから、気にしないでくれ。リチェリンにはリチェリンの思う道を進んでくれた方が、俺は嬉しいから」
取ったままの彼女の手が、固くなったようだった。オルフィは少し迷って――その手を放した。
「あ……」
「もう、着く」
彼は言った。目指す会議用の広間がすぐそこであることは知っている。
「――大丈夫だよ」
もう一度笑みを浮かべた彼に、リチェリンは笑みを返せなかった。
こちらです、と使用人は言うと戸を丁重に叩き、「イゼフ神官方をお連れしました」などと言った。イゼフはちらりと一行を眺め、オルフィを手招いた。片眉を上げ、彼はそれに従う。その背後でリチェリンは戸惑った表情を浮かべたままだった。
ナイリアン国がいまどんな薄氷の上に立っているか、多少なりとも理解し危惧していたのはレヴラールとキンロップくらいであったろうか。
オルフィもリチェリンも国政には疎いし、ピニアは仕事柄ある程度判ることがあるものの、いまは状況を追いきれるだけの余力もない。シレキはいくらか判っても案じる立場になく、イゼフも同様だ。
「きたか」
広い部屋の大きな卓の向こうで、レヴラールは彼らを認めると立ち上がった。使用人に下がるよう指示し、キンロップにうなずく。と、祭司長は瞳を閉じて何か唱えた。
「どこに耳が控えているか判りませんからな」
その言葉からキンロップが何かしらの神術を巡らしたようだと推測ができた。おそらくカナトも使っていた、周りに声を洩らさない術と似たものだろう。
「このような殺風景な場ですまぬな。私の執務室は知っての通り、まだ騒々しい故」
まずレヴラールは言い、キンロップが少し目を見開いた。祭司長が驚いたのは、第一王子が庶民相手に謝罪を口にしたせいであろう。
「いや、場所はどこでも」
オルフィは手を振り、それから目をぱちくりとさせた。
「お」
と思わずオルフィが声を出してしまったのは、王子と祭司長のほかに思わぬ人物がいたからだ。
「ヒューデア」
白銀髪の剣士は護衛さながらレヴラールの斜め後ろに立っていた。本来ならばグードか、ジョリスの立つ位置であろう。だがグードは亡く、ジョリスは休んでいる――休まされている。
「それに……」
王子の横で、驚いたように目を丸くして両手を口に当てているのは、ラシアッド王女ウーリナであった。
(ああ、それじゃやっぱり)
(本当にレヴラールの婚約者)
「……貴殿は、もしや」
レヴラールの目は、しかしオルフィを通り越して違う人物――ラスピーに向いていた。
(へ?)
(知り合いなのか?)
「密偵」がナイリアン第一王子の知り合いのはずはない、とオルフィがラスピーを振り返ったときである。
ぱっとウーリナがレヴラールの横から飛び出した。
「ラスピーシュお兄様!」
叫ぶと彼女はラスピーに駆け寄り、ラスピーは優しい笑みを浮かべてそれを抱きとめた。
「……ラス」
「ピーシュ?」
「お兄様ぁ!?」
オルフィとリチェリンと、それからシレキが声を発した。声こそ上げなかったものの、ヒューデアも目を見開いている。
「やはり貴殿はラスピーシュ殿下か。ロズウィンド殿下とよく似ておられる」
レヴラールは目をしばたたいて言った。
「中身の方も兄と似ていたならラシアッドは安泰だったのに、というのが我が国での評判です」
妹王女を抱き締めながら、にっこりとラシアッド第二王子は言った。
(第一部終章へつづく)




