09 判ってない
エクールの湖神のことは、ピニアについて調査をしている内に少しだけ知るようになっていた。しかしナイリアン国でほかにも聞かれる、実際にはろくに力のない土地神信仰だと思っていた。
それは違う、と言ったのはニイロドスだった。
湖神エク=ヴーには大きな力があり、神子を手に入れれば思うままだと彼に話したのは悪魔だった。
ハサレックの生存もまた、伝えたのはニイロドスだった。コルシェントはハサレックの出来事に何ら関与していなかった。ジョリスとふたり〈ナイリアンの双刃〉と言われた男がジョリスを妬んでいるという話は、しかし大いに納得できた。
それはハサレックの動機の半分でしかなかったが、それを言うのであればコルシェントもまた同様だった。
騎士への嫉妬はあった。だがそれはやはり半分。キンロップに敗れるのではという焦燥感はより強い力への渇望となり、彼を動かした。
動かされていることに、気づかぬまま。
行方不明だというエクールの神子を探すために子供たちを手当たり次第にさらうというのは乱暴な計画だったが、騎士が動かざるを得ない状況にするにはちょうどよかった。〈兎を捕らえた狐を仕留める〉というものだ。
ジョリス・オードナーの「追放」は意外なほど巧くいった。予定では彼から箱の話を持ち出すはずだったのに、騎士の方でもそのことを考えていたからだ。余計な説明や説得の手間が省けた。
ジョリスの口にした「予言めいた言葉を寄越す人物」というのが少々気にかかっていたが、それが誰であれ、判っていながらジョリスに託したのであれば大して案じる必要はないと判断した。「見る」ことだけに長けた者なら、直接介入してくることはない。
国勢を不穏にさせ、ジョリスをおびき出す裏でアバスターの籠手を回収し、神子を見つけたら「黒騎士」を用済みとしてハサレックが英雄となる。その筋立ては、しかし、本当にコルシェントが考えたものだったのだろうか。
いまとなっては判らない。
悪魔は、彼が小道具でしかなかったと告白した。
ニイロドスが「鑑賞」したかったのはコルシェントではなくハサレックであったと。
もっともピニアに対する狼藉だけは、間違いなくコルシェントの頭から出たことであったようだ。あれこそ「悪魔の囁き」のようであったが、そうではなかったからこそニイロドスを興がらせたということになろう。
彼は、ピニアを我が物にと望んだのではなかった。
ほかの男にやりたくなかっただけだ。
娘の純情な恋を踏みにじる真似をしたのも、死んだ男をそのまま思い続けていきそうな彼女が腹立たしかったからだ。それとも、腹立たしかったのはやはりジョリスの存在か。
その訃報が伝えられてもなおピニアは、いや彼女だけではない、ほかの騎士たちはもちろん、〈白光の騎士〉を煙たく思っていたようなキンロップまでジョリスを惜しみ、悼んでいた。レヴラールが激しい怒りを見せるのもひとえにジョリスを信頼し、愛していたからだ。
もっとも、王子の癇癪はいいように利用できた。レヴラールを裏切った――と王子が感じていた――ジョリスへの罰を提案することで、一気に王子の信頼、同調を得られた。もう少しレヴラールが冷静だったら、たとえコルシェントがこっそり王から許可を取っても嗅ぎつけ、彼の心の師を不名誉から守る方向に動いたはずだ。
レヴラールの反応は都合がよかった。
だがそれ以外の、そうはならないピニアの反応だけが彼を苛立たせ、不快にさせた。
だから、許しを請わせたかった。
ピニアを汚し、貶めることで奇妙な安心感が湧いた。繰り返し求めたのは肉体的な快楽よりも嗜虐的な満足だった。
自分がこの女を所有し支配しているという思考は彼を落ち着かせた。
ピニア。エクール出身の、〈星読み〉の占い師。何故、こんなにも惹かれたものか。
それを「恋に理屈はない」などと小娘のような答えに結びつけるには、彼は魔術師でありすぎた。
定めの鎖と言うのとも違う。この場合は。
もしや、とこのとき一瞬、彼の脳裏にひらめくものがあった。
ピニアはエクールの娘。
神子でこそなく、幼い内に離れたとは言え、〈はじまりの湖〉に連なる者だ。
彼の目をそこに釘付けることで、得をする者があったのではないか――?
その思考はしかし、瞬時に流れていった。何かが引っかかったのだが、彼の気は急いており、いまは考察を進めるには向かない状況だった。
だが負けぬ、と彼は思った。
まだ完全に負けた訳ではない。現にこうして危機をかわし、逃げ延びている。
ハサレックとニイロドスに裏切られ、宮廷魔術師の地位を追われ、愛しい女もついに見つけた神子も傍らになかったが、それでもコルシェントはまだ負けていないと信じていた。
ジョリス・オードナーの生還という、ある意味では最も彼に厳しい現実でさえ、まだひっくり返せると。
そう、彼はまだ、逆転できると信じていた。ハサレックを使ったのが間違っていただけだと。大魔術師となっただけの魔力がある自分に、容易に破滅が訪れるはずはないと。
もしやそれもまた、悪魔の呪いの一種であったろうか? 存在しない「希望」の幻影を見つめ、立ち止まらない。
それともただ、見たくないものを見ないよう、目を閉じて危険な疾走をしているだけであったろうか。
「――ああ、やっぱり、ここにきたか」
声が言った。コルシェントはびくりとした。
「自宅に戻るなどというのは馬鹿らしいことのようだが、魔術師ならたとえ囲まれたところで跳んで逃げられる。だがどの国に自分を売りに行くにしても、資金は必要。これまでに貯めた宝玉を持てるだけ持っていくつもりじゃないかと踏んだんだが」
合っていたなと声は続いた。
「下調べの甲斐があったというものだ。あのときは町憲兵がうるさかったが」
「何奴!」
コルシェントは宝玉の入った袋を握り締めて叫んだ。
「おや? 見覚えがないと仰る」
青年は肩をすくめた。
「私はあのとき、ただの障害物でしかなかったという訳かい? ふむ、いささか自尊心が傷つけられるね。誰もが認める絶世の美男子……とまでは自惚れないが、印象の強い顔立ちだと自負しているんだが」
「……宿にいた、神子の護衛か」
コルシェントは記憶を呼び起こした。
「はは、私は生憎と護衛騎士とはいかないな。リチェリン君をさらわれてしまったんだし」
ラスピーは口の端を上げた。
「それに神子の護衛騎士なら、私よりヒューデア君の方がずっと似合うだろう。若くてなかなかきれいな顔立ちをした剣士だからね。生憎といまここにはいないけれど」
「ふ、ふふふ」
思わずと言った体でコルシェントは笑った。
「たとえ剣の腕に秀でていようと、大魔術師に対抗はできまい」
「私は君と剣で戦う気はない」
それに、と彼は笑んだ。
「魔力がないからと言って、甘く見ない方がいい」
「は」
何の冗談か、と魔術師も笑った。
「魔術の何たるかを知らぬのであれば、もう一度身を以て教えてやってもよい」
「いやいや、遠慮しよう」
にっこりとラスピーは言った。
「本当はね、禁じられているんだ」
それから彼は意味を為さないと感じられることを言った。
「でも私はいま、腹を立てている。だから反抗期の少年のように逆らいたい気持ちがあるのさ」
「何を……言っている」
コルシェントは眉をひそめた。
「頭がおかしいのか。まあ、かまわん。いますぐ黙らせて――」
「それは無理だ」
笑みを保ったままラスピーは言った。
「私はね、こう見えても、ずっと腹を立て通しなんだ。その鬱憤をここで晴らさせてもらおうと思う」
「術が」
魔術師ははっとした。
術が効かない、そのことにコルシェントは動揺した。
シレキのときのように、抑えられたという感触もない。
何も変わった魔力の場は存在しないのに、彼の術が働かない。
「君は自分が何に手を出そうとしていたのか判ってない」
ふう、と息を吐いて青年は首を振った。
「でも『知らなかったんだから仕方ない』なんてことは、私は言ってやらない。無知というのは時に罪なんだ」
「貴様は」
コルシェントはうなった。
「何者だ」
「名乗るほどの者でもないが」
くすりとラスピーは答えた。
「私も善人じゃない。いつかは獄界で再会するかもしれない。そのときを楽しみにしておきたまえ」




