08 リヤン・コルシェント
ありとあらゆる呪詛の言葉が魔術師の内に浮かんでいた。
いったいどうしてこうなってしまったのか。彼の人生はこれからもこの先も順調で揺るぎないものであったはずなのに。
彼の生まれはごく普通の家庭であったが、魔力が発現してからは親元を離れるという「魔術師」にしてはよくある幼少期を送った。よくある場合と少し異なったのは、彼の力が強すぎて、母親に大きな怪我を負わせてしまったということだ。
家族は彼を怖れ、彼も家に戻る気をなくしていた。
だが不幸だとは感じなかった。幼心に彼は気づいていた。魔術は彼の天性の技であり、これを伸ばし活かしていくことが何より成功につながると。
それは正解で、リヤン・コルシェント少年はめきめきと頭角を現し、十代で中等の学問を終えては時に導師にすら打ち勝つことがあった。
しかし彼は驕らず、自らを研鑽した。その真面目な性分を買われて当時の宮廷魔術師カーミルの助手に抜擢されたのは二十代の半ばだ。
彼は指示のままに雑用もこなせば自身の勉強や鍛錬も欠かさない、実に立派な青年であった。そう見えた。
行き詰まりを覚えたのはそれから数年後。
天才ともてはやされた子供が成長すれば大衆に埋もれるように、「十代の頃とても優秀だった」彼に同年代や年下の魔術師が追いついてきた。
彼は焦り、いろいろなことをもっと学んだ。魔術のことはもちろん、カーミルの手伝いに必要だった政治や国際情勢のことも。彼は駆け引きを覚え、演技を覚えた。にこやかに嘘をつき、握手の相手を裏で呪うこともあった。
いつまでもカーミルについているのは得策でないことにも気づいた。宮廷魔術師は助手を使い捨ての道具としか思っていない。彼は指示こそ変わらずこなしたが、時にカーミルを飛び越えて祭司長や、王にまで進言をした。
先王は完全に宮廷魔術師や祭司長に骨抜きにされていたものの、王子は違った。レオラール王子は父王が国を駄目にしているのではと案じており、同じ「次世代」と感じたか、コルシェントの意見をよく聞いた。
となれば新王が誕生したのち、彼が新たな宮廷魔術師となるのは当然の流れでもあった。
もっともその頃の彼はまだ、それ以上の野心など持っていなかった。宮廷魔術師ですら別に目指したつもりではなく、「このままでは飼い殺される」という不安から積極的に動いていただけで、結果的にそうなったとは言え、カーミルから宮廷魔術師の座を奪い取るつもりではなかった。
しかしその座に就いたからには王子――新王の信頼に応えようと次の努力を続けた。同じように抜擢されたキンロップとは少々そりが合わなかったが、向こうは年上で頭の固い神官だから仕方ないのだと思えばいくらか譲れ、波風を立てずに済んだ。
ナイリアンの騎士たちとも、交流はほとんどなかったが、問題が発生することもまたなかった。彼らは言うなればナイリアン国の「善の象徴」、彼ら自身が騒ぎを起こすことは有り得ず、こちらから喧嘩を売る必要も皆無だった。
彼の運命が変わった――それとも最初から定められていたものであれば、思わぬ方向に続いていたことが判った――のは、あとになって思えば、彼女と出会った日だった。
城下で評判となった「美人占い師」をひと目見てみたいと王が言ったのは、ちょっとした気まぐれだっただろう。特に本気でもなかったのかもしれない。そのままコルシェントが忘れてしまっても、何も問題は発生しなかったかもしれない。
しかしコルシェント自身が興味を持ったのだ。本物の〈星読み〉の技を持つ魔術師は稀であり、どんなものか一度「見物」してみたいと思ったのである。
そう、その程度の興味だった。
いかに本物の力を持っていても、不必要に自らの力や美しさをひけらかすような女であれば「王に目通りが叶った」などという栄誉を与えてやる必要もないだろうなどと考えていた。
しかし招いて話をしてみれば、ピニアは聡明で控えめな女だった。
自らが生まれ持った力について真摯に考えており、勉学への意欲もあった。宮廷魔術師と、それとも大魔術師と相向かっていることに緊張している様子が、ずいぶんと可愛らしく見えた。
それまで彼は、女の美醜に興味などなかった。いや、女自体に興味がなかった。
異性との肉体的交わりが魔力の低下を招くという迷信――とされているが、絶対に起きないと誰に言えよう?――が引っかかっていたせいもあるが、大多数の魔術師同様、本当に関心がなかった。女を嫌うのでも避けるのでもなく、必要な相手と必要な交流は持ったが、いまとしなっては皮肉なことに、彼は「騎士のように」禁欲的だった。
だが、初めて惹かれた女が彼を変えた。
違った。ピニアだけはどんな女とも違った。彼女は彼の目を奪い、少しでも長く一緒にいたい気持ちにさせた。声を聞きたいと、笑顔を見たいと、触れたいと思わせた。
彼は素知らぬ顔でピニアをレオラール王に推薦した。その頃には彼女に対する調査も進んでおり、〈はじまりの湖〉の畔にある村の出身者であることも判っていたが、レオラールはそれほど〈湖の民〉に偏見を持っていない。コルシェントが推すなら実力があるのだろうと――実際、あった――宮廷で行われる儀式に関する占いをピニアに任せるようになった。
そうした折りだけだった。彼が彼女と会って話をするのは。
何を話した訳でもない。事務的な話しかできなかった。初恋に落ちた少年のように、どうしていいか判らなくて。
その感情に彼は戸惑うより呆れ、自分を嘲笑った。
だが冷笑的な態度を取ってみても心が落ち着くことはなかった。
ましてや――彼女が〈白光の騎士〉に恋をしていると気づいてからは、なおさら。
若い娘がジョリス・オードナーに憧れることは何もおかしくない。夢中になる度合いは違っても、ジョリスに魅力があることを認めない女はいなかった。いや、男もだ。
だからピニアの恋もまた当然だ。ただジョリスの噂を聞いたりたまに運よく姿を見るだけの街娘とは違い、直接顔を合わせて言葉も交わす。騎士に「化けの皮」があればそれは幻想を打ち砕くことになったろうが、ジョリスは評判そのままの人物だった。
ただの小娘のようにピニアはジョリスに憧れの眼差しを向け、彼はそれを見ているのが痛かった。
自分を見てほしいと思ったことはない。恋人や妻など煩わしいと思う「魔術師らしさ」は彼の内に根強く存在した。だが、だからと言って愛しく思う女がほかの男に夢中でも平然としていられるほど鈍くもなかった。
自分自身がピニアを抱くことは、考えなかった。しかし悪夢のようにまぶたの裏にちらついたのは、騎士と娘の睦言だった。騎士は禁欲的だが、それでも男だ。若く美しい娘に純粋な視線を向けられて、いつまで気高さを保っていられるものかと、そう疑った。
いつピニアの憧れの目が恋人を見るものに変わるかと、彼は胸に暗い炎を燃やして見張っていた。
そうしてしばらくした頃だった。
それが彼の前に現れたのは。
「教えてあげましょうか。邪魔なジョリス・オードナーを追い払い、あなたをこの国の実質的な支配者にする方法を」
その誘いに、すぐさま乗った訳ではなかった。
「馬鹿らしい」
最初は一蹴した。
「ジョリス殿が邪魔などということがあるはずもない。彼はナイリアンの騎士、それも絵に描いたような理想的な人物だ。人々の尊敬を一身に集める、彼のような人物にはいてもらった方がいい」
心からの言葉だった。そのつもりだった。だがわずかな、ほんのわずかなほころびを見逃さないのが悪魔だ。美女の姿を取ったニイロドスは妖艶に笑って、彼の仮面を見破った。
「そうね、ひと月後」
「何」
「ひと月経ってもあなたが同じことを言えたら、私は二度とあなたの前に現れないでしょう」
それからのひと月というもの、まるでありとあらゆる神に見放されたかのように、彼には運がなかった。
伝言のちょっとした行き違いで彼の提案が廃されたり、重要な書類が一枚だけ抜けていたりしてキンロップに譲らざるを得ないことが続いた。
焦りが生じた。このままではレオラール王が彼をなおざりにしてキンロップを重用するのではないかと。
何しろ彼はまだ若い。宮廷魔術師の助手だと言う方が適切な年代だった。レオラールは彼とキンロップに頼りきりだが、だからこそ失態続きのコルシェントよりキンロップの方が頼れると思うようになるのでは、と。
ほかにも些細なことながら、新調した黒ローブが届かなかったり、目当ての書物がことどとく手に入らなかったり、そんなひと月が続いた。
そんな事々で焦り苛立っているとき、彼は幾度もジョリスとピニアを見た。
その頃にはピニアは宮廷の夜会などにも招かれるようになっており、そうした際は彼女の登城にコルシェントが関わることはなく、迎えに行くのは〈白光の騎士〉だった。もはや彼女と王宮の間にいるのは彼ではなかった。
黒い思いが湧き上がるようになった。
これらの出来事が悪魔のせいではないかという考えも浮かんだ。いや、十中八九そうだろうと考えた。だが少なくとも彼の失態と、ピニアのあの視線は本物だ。
「――どうかしら?」
悪魔が再び現れた。
「気持ちは変わらない?」
「女との取り引きは好まない」
彼がそう言えばニイロドスは笑って、青年の姿に変化した。
「判るとも。君は『女』への欲望に目覚めた訳じゃない。彼女だけを見ている。君たちの好きな言葉で言うなら鎖。君は彼女につながれている。極端な話、たとえ彼女が男であったとしても、君はきっと惹かれた。それが運命ってものだからね」
そうしてちょうどひと月後、彼らの間に契約は成った。
力を得るため。
邪魔者を追い払うため。




