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アバスターの継承者  作者: 一枝 唯
第5話 契約と犠牲 第4章

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07 聞こえる気がする

 夕方の街のざわめきも、その部屋までは届いてこなかった。

 オルフィは、寝台の脇に小さな椅子を持ってくると、まるで病人に付き添いをするかのようにそこに座り込んだ。

 だがもちろん、そこには病人が眠っているのではない。

 少年の身体はもはや完全に冷たく硬くなっており、もうここに「カナト」はいないのだと痛いほど彼に知らせた。

「なあ……カナト」

 死者に言葉は届かない。

 判っていても、話しかけた。

「俺さ、たくさん君に助けられたよ。カナトがいなかったら、俺はとっくに大ポカをやってきっと牢獄にでも閉じ込められてさ……いや、そんなことじゃない。魔術で助けてもらったとか、そういうことじゃなくて」

 ゆっくりと彼は首を振った。

「いてくれた、それだけですごく助かったんだ。訳が判らないことばっかりでさ、ひとりだったら俺……どうなったか」

 オルフィ、オルフィと笑顔で呼んでくれた年下の友。あなたは悪くないと、励ますように繰り返してくれた。カナトは何も励ますためではなく本心から言ってくれたのだろうが、だからこそ有難かった。

「ごめんな、湖では。急に、黙って行っちまって。言い訳になるけど、あんときは俺、自分でも状況が判らなくてさ」

 ぼそぼそと彼は続けた。

「正直に言うと、まだちょっと混乱してる。でも聞いてくれるか」

 死体は返事をしない。判っている。だがカナトならば必ず聞いてくれるだろう。真剣な目をして身を乗り出し「何ですか、オルフィ」と。「悩みごとですか。僕でよかったら相談に乗りますよ」と。

「ヴィレドーン」

 彼はその名を呟いた。

「カナトに〈裏切りの騎士〉の名前を聞いてさ。俺、すごく怖かった。カナトは俺が敏感なんだろうって言ったけど、でも、そうじゃなかったんだ」

 ぽつぽつと彼は続けた。

「それは……俺だった」

 ふう、と彼は息を吐く。

「俺は知ってたんだ。その名前をさ。誰よりもよく。いや、知らなかった。『オルフィ』は知らなかった。いや、ええと」

 ううん、と彼はうなった。

「おかしな話だよな。判ってる。俺はいくらなんでも、五十歳以上には見えないよな? 計算で行くと、五十も半ばを超すはずなんだけど」

 そこで少し彼は笑った。

「もっとも俺が『死んだ』とされたのは二十七か、八か、そんくらいだったかな。ああ、でも、『反乱』のときじゃないんだ。あのときに俺がアバスターに殺されたってのは間違いって言うか、あとでアバスターとラバンネルがそういうことにしたんだと思う。そもそも、俺は死んだって訳じゃなくて」

 曖昧に言って彼は頭をかいた。

「どう説明したらいいのかな。これは物語歌で言うような『生まれ変わり』みたいなこととは違うんだ」

 冥界を流れる大河ラ・ムールは、生前の記憶を洗い流すと言う。だがごく稀に、過去の記憶を(そそ)ぎきれないままで次の生に向かう魂があると、そうした詩歌や芝居はそう珍しいものでもなかった。だがそうではない、と彼は言った。

「オルフィの前世がヴィレドーンだと言う訳じゃない。じゃあ何なのかって言うと……その辺りのことはまだよく思い出せないんだ。それとも、俺は知らないのかもしれない。あのとき、アバスターはニイロドスって悪魔と対峙した。悪魔だぜ、比喩でも何でもなく」

 わざと茶化すように言う。

「悪魔って言葉がやたらと怖かったのも、俺の……『ヴィレドーン』の記憶のせいだったんだろうな。俺は思い出したくなかった。『オルフィ』でいたかったんだ。ラバンネルは、俺が容易に思い出さないよういろいろ封じてくれたけど、俺の存在に気づいて直接ちょっかいをかけてきたニイロドスの力がそれを上回った、ってとこだと思う」

 ははっと彼は笑った。

「意味、判んないよな? 何かもうちょっと巧く話せるといいんだけど、まとまらないんだ。それに『ヴィレドーン』の記憶は間違いなく俺自身のものだと思うと同時に、他人事みたいって言うか」

 彼は頭をかいた。

「こう……薄い膜がかかってるみたいで……違うな、まるで芝居を見てるような……ううん、そうでもない」

 カナトなら、適切な表現を見つけてくれただろう。

 カナトなら、適切な質問を挟んで上手に話を誘導してくれただろう。

 だが少年は何も言わない。

 もう、何も。

 かっと頭が、目が熱くなった。

「ごめん、ごめんな」

 オルフィは少年の手を握った。

「俺の、せいだ。俺が巻き込んだ。巻き込んじゃいけないって、君と会った頃に予感めいたものを覚えたのに、無視して連れ歩いた。君はきっと、俺のせいじゃないって言うよな。籠手の件みたいに。籠手の件は確かに君の言う通りだった。みんなそうだった。アバスターとラバンネルが、彼らがほかでもない俺の守りにと残してくれたんだ。君は正しかった。でも、でもな」

 嗚咽が洩れる。言葉は不明瞭になっていた。

「君の、君のことだけはどうしたって俺のせいだ。君は最期まで俺を案じて、恨みごとのひとつも言わなかったけど」

 その卓越した魔力でどこまで知ったのか。明確にオルフィがヴィレドーンであるとまでは読み取れなかっただろう。だがオルフィがオルフィであるようにと、最後まで忠告を、助言をくれた。

 だから彼はいまここにいる。

 ヴィレドーンの、オルフィよりも長く強烈な記憶に溺れることなく。

 彼は確かに、過去にはヴィレドーン・セスタスと名乗り、生きた男だった。だがいまはアイーグ村のオルフィだ。

 彼がそうなることに、どんな強い妖力が関わっていたとしても。

「ごめんな……カナト、ごめんな」

 謝っても何にもならない。カナトは戻ってこない。あの声はもう聞かれない。あの笑顔はもう見られない。

「メルエラが死んだ……殺されたときは、復讐以外考えられなかった。故郷を守るって気持ちもあったが……ああ、そうだ。俺、って言うかヴィレドーン・セスタスってのはあの畔の村の生まれなんだ」

 言ってなかったな、と彼は呟く。

「彼女、メルエラは神子で神聖な存在だったけど、俺は思春期に村を離れたせいかな、彼女に恋心めいたものを抱いてた。いや、あれは郷愁だったのかもしれない。何にせよメルエラは俺にとって大事な存在だった」

 墜落死したなど、断じて嘘だと思った。嘘だと判った。神子は事故からも守られる。気に入らない〈湖の民〉を殲滅するならここで神子を殺しても同じ、むしろ「不思議な力」を持つ娘などいない方がはかどると考えた者がいたのだ。

 正確には、どういう意図であったかまでは判らない。だが王が彼女の殺害に関与したことは確実であり、彼は復讐を決意した。

「いや、どうでもいいよな、過去の話なんか」

 彼は首を振った。

「俺はさ、俺のせいで君を死なせちまったってのに、こうして話してたら君が何か言ってくれるんじゃないかって……どっかで期待してるんだ。助けてほしい。いや、助言なんかじゃなくてもいい、ただ『驚きました』なんて率直な感想でも、『本当ですか?』なんて言葉でも……はは」

 また少し笑う。

「聞こえた、気がしたな。君が『いえ、オルフィの話を疑ってる訳じゃなくて』なんて言い訳してから、謝るのがさ」

 ごめんと繰り返せば、いつもと逆ですねと笑うのだろうか。

 いや、笑わない。

 死者はもう、二度と。

「伝えるよ。あの人に……ミュロン爺さんにさ。ちゃんと。君の家族だもんな。でも、もうちょっとだけ待ってくれるか。いますぐあの村に行くって訳にも、いかなくて」

 かまいませんよ、と聞こえる気がする。

「『仇討ち』って気持ちも……いくらかは、ある。いや、判ってるさ、ハサレックに挑んで勝ったところで君が帰ってくる訳じゃないってことは……」

 あっ、と彼は顔を上げた。

「すごい報告がある! ジョリス様が、生きてたんだ!」

 唯一の、喜ばしい話。少し前の彼だったら、飛び上がって喜んだだろう。

 だが、いまは。その最高の知らせだって、彼の心を弾ませてはくれない。

 作ってみせた笑みも、すぐにしぼんだ。

「生きてたんだ……あの人。死にそうだったところをラバンネル術師が助けたんだって」

 哀しみのなかの喜びは、とても複雑だ。

「だから、さ。ジョリス様の仇討ちってのは、もう必要ないんだ。でも、君の仇討ちをしたいなんて言ったら、怒られるかな」

 ハサレックを殺したところで、何にもならない。

 判っている。

 でも、と彼はゆっくり続けた。

「仇討ちだけじゃない。あいつは、この先も何をするか判らない。放っておけない。俺は、いまではただの荷運び屋だし、かつてだって騎士位は剥奪されてるが、それでもナイリアンの騎士の心根は持ってるつもりだ」

 左手をカナトから離すと、彼はさっと誓いの仕草をした。

「ナイリアンを守るなんてのは、いまじゃ分不相応さ。でも俺の周りの人たちを守るくらいならたぶんこの左手一本でも戦えると思うんだ」

 きゅっと彼は拳を握った。

「そのことにもっと早く気づいていれば、こんなことにならなかったのかも、しれないけど」

 オルフィ、オルフィ、と慰める声が聞こえそうだ。

 あなたは悪くありません、と。

「戦うよ。『オルフィ』は鍛錬不足で、これまでよくやったって感じだけどさ、『ヴィレドーン』が覚えてきたことはちゃんとこのなかにあるんだ。少し身体を鍛えりゃもうちょっとましに()れる」

 くれぐれも気をつけて下さいね――などと、聞こえる、気が。

「有難うな。守り符。大事に、するよ」

 礼を言うと、ぎゅっと胸と頭が熱くなった。

「カナト……」

 再び左手を伸ばすと少年の冷たい指を固く固く握り締め、オルフィはひとり、涙を流した。


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