03 生かしちゃおけない奴
「また、それなのね」
リチェリンは怖れまいとコルシェントを睨んだ。
「〈はじまりの湖〉の神は、下らない野心に協力したりしないわ」
知ったような口を利くのははったりばかりでもない。神女見習いとして、自然と出た言葉だった。それが八大神でなかろうとも、人々の崇める存在がそのような利己的な願いを叶えるはずがない、と。
「ふん、言うものだ」
魔術師は鼻で笑った。
「ピニア、何をしている。支度だ。金目のものをみんな鞄に詰めろ。急げ!」
気の毒な占い師ははっきりとした命令に唇を噛み、一度気遣わしげにリチェリンを見た。リチェリンは気丈にうなずいて見せ、ピニアが踵を返すのを見送った。
「いいか、エクールの神子。お前が湖神を操るのだ。それが神子だ。神子と湖神が繋がっているということ」
「操るですって」
「そうだ。湖神は荒ぶるもの。それを制するために神子がいる。神子とは羅針盤のようなものだ。それがあって初めて、湖神は行き先を知る」
「そうであったとしても、いえ、そうであればなおさら、言いなりになんか」
「は、どうやら本当に縛ってやらねばならぬようだな!」
魔術師の手に力が込められた。
「い……」
男の力で強く握られ、反射的に「痛い」と声を発しそうになったリチェリンだが、ぐっとこらえた。悲鳴を上げるなど、屈するようで悔しいからだ。
「神子には処女性が重要だ、それ故見逃してやったが、男の槍を使わずとも辱めてやる方法はいくらでもある」
その瞳は狂信的とも見えた。リチェリンは恐怖よりも、きゅっと胸の辺りが痛くなるのを感じた。
「哀れな……人」
知らず、彼女の口からはそんな言葉が出ていた。
「何だと」
「気がついていないのね。神子は神の子……神を操れるはずもないのに、誰かに聞かされた出鱈目を信じ込んだまま」
「何、を」
「あなたの後ろに影が見えるわ。あなたはそれから離れたつもりかもしれないけれど、あなたの意志で離れられるものではない。それはいまもあなたを見ている。あなたにつけた糸を手放してはいないの」
彼女は続けた。
「それはまだあなたを真の意味で解放していない。駒にすることはなくとも……混沌を引き起こす『要素』として盤上に置き続けるつもりよ」
「――成程。神子の力の一端か」
きゅっと目を細めて魔術師が言えばリチェリンははっとした。
(私、いま何を?)
自分でも、いや、自分では不可解なことを言った。コルシェントは言葉の意味を理解しているようだ。
「私をあれだけ貶めておきながら変わらず見張っていると言うのであれば、まだあれとの遊戯は続いているということになる。問題はないどころか、結構なことだ」
コルシェントは唇を歪めた。
「悪魔の駆け引きか。なまじいつでも本心のように聞こえる故、信じるところであった」
くっくっく、と笑い声が洩れる。
「結構だ、ニイロドス。見るなら見ているといい。望む破滅を作り出してやる。ただ、私の番はまだだ。次はハサレック。それからキンロップ。レヴラールにも舞台に上がってもらおう――」
「俺は、無視かよ?」
オルフィは口を挟んだ。
「あんたの眼中には、ほんと、俺はいないんだなあ。有難いような、ちょっと腹立つような」
「オ、オルフィ!」
リチェリンは目を見開いた。幼なじみの若者が、まるで魔術師のように急に現れたことにも、彼が黒騎士のような黒衣に身を包んでいることにも、その右手に、オルフィに似つかわしくない細剣があることも。
「ち……」
コルシェントは舌打ちした。
「痕跡は消したはずだが、よくたどり着いたな」
「それは、魔力の痕跡とかってことか? そんなの知るかよ」
若者は肩をすくめた。
「あんたが神子と信じるリチェリンと、それからご執心の占い師。捨てて逃げるのは惜しいだろうって想像は簡単だ」
言うと彼はぎろりとコルシェントを睨んだ。
「リチェリンを放せ。いますぐだ」
「調子に乗るなよ、田舎の若造が」
「はっ、名前も覚えててもらえないとはなあ」
オルフィは口の端を上げた。
「ま、いいさ。俺は英雄でも騎士でもないんだし。名乗るほどの名前でもないし」
そう言って彼は手にしていた剣を――どうしたものかと迷うようにちらりと眺めた。
「ん、こっちかな」
ぱっと彼はそれを左手に持ち替えた。
「さ、俺には何の権限もないが、同時に禁忌もない。つまり、あんたを裁く権利はないが、裁くために生きて捕らえなくちゃならないってこともない」
「オル……」
「少しは剣が使えるのかもしれんが、魔術に敵うと思うのか?」
「戦るならかまわんぜ。それにはリチェリンが邪魔だろ。早く放せよ。それとも、人質がないと心配なのか?」
「ふふ、下らぬ挑発だな。だがいいだろう、乗ってやる」
魔術師は言うなりリチェリンをオルフィの方へ突き飛ばした。
「あっ」
「このっ」
オルフィは素早く彼女を支え、その間にコルシェントは距離を取った。
「危ないわ、やめて、オルフィ」
「俺は大丈夫。リチェリン、下がってて」
うなずいてオルフィは言ったが、もちろん彼女にはとても大丈夫とは思えない。リチェリンは捕まえるようにオルフィの腕を取った。
「リチェリン」
諭すように彼は優しい声を出した。
「有難う。でも本当に大丈夫だから」
そっと彼は彼女の指を引き剥がした。
「神子を離してよいのか?」
嘲笑うようにコルシェントが言う。
「その娘を盾にすれば、私は魔術を振るえぬかもしれんぞ?」
「ふざけたこと、言いやがって」
天地がひっくり返ろうと、オルフィがそんなことをするはずがなかった。たとえ彼が「オルフィ」でなかったとしても、採らない手段であろう。
「なめるなよ」
オルフィは低く呟いた。と、次の瞬間、彼は踏み込んだ。それは魔術師には思いがけなかったようだった。彼は完全にオルフィを侮っていたのだ。
ニイロドスが語り、ハサレックが知っていたことをコルシェントは知らなかった。知らされていなかった。
焦ったようにコルシェントは手指を動かしたが、オルフィは躊躇わずに突っ込んだ。
その動きは、彼の身につけた籠手の銘のごとく。
これを防ぐことができるのは、ジョリス・オードナーやファロー・サンディットだけであろう。
かつて〈漆黒〉の騎士位に在った男の剣技は、三十年の時を経ていま蘇った。
「コルシェント!」
叫んで剣士は鋭い突きを放った。剣先は左腕を切り裂き、血しぶきを舞い散らせた。
「ぐうっ……」
魔術師はうめき、ぱっと右手で左腕を押さえたが、それは痛みや出血を軽くするための反射的な行動ではなかった。魔術師は魔術でその傷口を瞬時にふさぎ、痛みを感じなくなる術を自らに施した。
オルフィにはどんな魔術が使われたかなど判らなかったが、負わせた手傷が魔術師を一瞬怯ませたにすぎないのだということはすぐ判った。彼はそのまま返す刀でコルシェントの肩を狙ったが、大魔術師とまでなった男も容易にされるままではなかった。
カン、と剣が弾かれた。オルフィは顔をしかめてぱっと一歩退いた。
「おのれ……」
「魔術の、防御壁か。話には聞いたことがあるが、行き合ったのは初めてだな」
呟いて彼は剣を右手に持ち替え、左手を閉じたり開いたりしてからまた戻した。
「だがそういうもんがあると判れば、話は違う」
言うと辺りをさっと見回し、見つけたもののところに素早く駆け寄るとひっつかんで投げつけた。飛んできた花瓶に、コルシェントは反射的に手をかざす。
「そこだ!」
オルフィは飛び込んだ。
彼は、魔力を持たない。カナトもそう言ったし、コルシェントだってもちろん同じように言うだろう。
だが、見えた。まるで戦い慣れた魔術師のように。
大魔術師の技の、その隙が。
彼の手にした細剣は違わずそこを――魔術師たちが術の編み目と呼ぶものの、わずかな隙間を正鵠無比に突き刺し、そして破った。
「なっ」
コルシェントは驚愕した。彼にしてみればそれは、ひとり歩きもままならない幼子が絵筆を持って伝説の絵師ファラサイのごとき絵を描くことに似ていた。
有り得るはずがない。考えもしない。
そのような事象に行き合ったとき、できるのはただ驚き、目を見開くことだけ。
「オルフィ、駄目! 命を奪っては!」
リチェリンの声が、その切っ先を逸らした。コルシェントののどを貫くであったろう刃は、そのあごから左頬を大きく引き裂くに留まった。
「うがあああっ」
もっとも、無論、大きな傷だ。それも痛みを感じやすい部位である。魔術師は先ほどと同じ術を使おうとしたが、先ほどよりも時間がかかった。
「……リチェリン」
彼は少し、退いた。
「神女見習いたる君がそう言うのは当然かもしれないけど」
オルフィはリチェリンを見ないまま言った。
「世の中には、生かしちゃおけない奴、ってのもいるんだ」
静かに彼は続けた。
「ピニアはどうなる? こいつが改心して契約を無にしない限り、彼女は縛られ続ける。これが心から反省すると思うか?」
応とも否とも、リチェリンは言えなかった。
神女見習いとしては、誰にでもやり直す機会はあるのだと、そんなふうに思う。二度に渡って脅された娘としては、この男が悔い改めるとは思えないと感じる。
ピニアのことも助けたい。その気持ちもある。
だがリチェリンが答えられなかったのは、そうした迷いのためではない。
問いかけが的外れだったからだ。
「違う」
小さく彼女は言った。
「オルフィ……お願い。あなたが、人殺しなんて、しないで」
それは神に仕えんとする娘の博愛ではなく。よく知る幼なじみに罪を犯してほしくないという利己的な願いだった。




