02 いますぐ支度を
(カナト君が神子だったのなら、私はもしかしたら)
(彼を守るため、もしかしたら彼の身代わりとなるために、同じ南西部にいたのではないかしら)
それは突拍子もない思いつきだったし、神女になる使命を覚えている彼女らしくない考えでもあった。だが、たとえ神子云々という話がなかったとしても、同じような模様を背中に持つ少年に運命的なものを覚えずにはいられなかった。
(もしそのようなことがあるとすれば、本来なら私が守るはずのカナト君と、そしてオルフィに、私が守られてしまった。これは、誤りなのかもしれない)
ふっと不安のようなものが彼女の胸に差した。
根拠はない。何も。それでも関わりがある。カナトと自分の間には。
何か大事なこと。
彼女には判らない。まだ判らない。
(カナト君)
(私はこの子のことを何も知らないままだった)
(私が知っているのは)
(――オルフィ)
そこで焦点はオルフィに戻る。不意にリチェリンは、イゼフがオルフィを気にかけていた理由が判るような気がした。
具体的なことはやはり判らない。しかし、カナトとリチェリンの間には、オルフィがいる。
このことは何を意味するのか。
判らない。まだ。
「こんなところ、かしら」
新しい衣服で血痕と傷痕を隠された少年は、まるで眠っているように見えた。だがぴくりとも動かない身体と冷え切った手足が、彼の命がもうここにないことを物語る。
彼女たちはどちらからともなく、彼を寝台に運んで、そっと寝かせた。
「カナト君の、しるしのことですけれど」
リチェリンは顔を上げた。
「あの……黙っていてはもらえませんか。無理でしょうか」
「私から言うことはしないわ。尋ねられれば言わざるを得ないけれど、彼もあなたが神子だと信じているから、尋ねないでしょう」
でも、とピニアは眉をひそめた。
「どうして? あなたの『自分は神子ではない』との主張を通すには、告げたいと思うものではないの?」
「それは」
リチェリンはそっと手を組み合わせた。
「告げればあの男は、背中を見る目的でまたこの服を剥ぐでしょう。着替えさせるためにこんなふうにするのも冒涜であるように思えるのに……」
「それは違う。私たちがそうしたのは、この子を血まみれのままにしておけないという気持ちからよ」
ピニアはきっぱりと、リチェリンの的外れな罪悪感を否定した。
「言いたいことは判ったわ。そうね、そんなことはさせられない」
こくりと占い師はうなずいた。彼女にできることは限られるが、限られるなかでできることを。
「それから、お願いがあります」
リチェリンは祈るように組んでいた手を解いた。
「エクール湖のこと、神子のこと……ピニアさんの判る範囲でいい、教えて下さい」
「――どうするの?」
ピニアは問うた。不安そうな表情が浮かんだ。
「私は、エクールの神子ではありません。そのはずです」
リチェリンは何度も繰り返したことをまた繰り返す。
「きっとカナト君がそうだったのでしょう。でも彼は亡くなった。……神子が亡くなったら、どうなりますか? つまり、次の神子は?」
「そう遠くない内に誕生するはず。でもそれは神子が寿命で亡くなった場合ね」
神子は湖神に守られ、天命を全うすると言う。病や事故からも守られるものと、少なくともピニアはそう聞いていた。
「少し時間がかかるかもしれないわね」
彼女は考え、そう言ってからリチェリンを見た。
「もしあなたがもうひとりの神子でなければ」
「……神子は亡くなった」
リチェリンはそれには答えずそう言った。
「私は、あの男が望む力なんて持っていません。そうと判ったらあの男はどうすると思いますか? また神子探しを新たにはじめて、子供たちが殺されることになりませんか?」
それがリチェリンの考えたことだった。
「――もうこれ以上、あの男のせいで誰かが死んだり哀しんだりするようなことがあってはなりません。私は自分が神子だとはやはり思えませんけれど」
神女見習いはきゅっと拳を握った。
「脅迫を怖れて従うように見せかけて、時間を稼ぎます」
「リチェリン……」
「その間にきっと、何かできることが判ります。助けようとしてくれる人たちもいます。オルフィは、いまどうしているのか判りませんけれど」
彼はどこへ行ってしまったのか。無事なのか。判らないまま。
「イゼフ神官やヒューデアさん、ラスピーさんもきっと」
黒い不安を抑え、リチェリンは言った。ラスピーの目の前で拐かされたのだ。彼が無事なら――そうでありますように、と娘は祈った――話はヒューデアにも伝わる。どちらも黙って引っ込みはしないだろう。
「ヒューデア? キエヴのヒューデア殿?」
「ええ、その方です。こちらの館の入り口で会って以来、お世話になって」
「では星が示し、アミツが指したというのがあなただったのね」
ピニアははっとした。
「やはりあなたは神子なのよ。湖神はどうしてか、ふたりの神子を遣わした。……ひとりが早くに死んでしまうことを知っていたかのように」
「そんな」
リチェリンは顔をしかめた。
「そんなの、まるでカナト君が亡くなることが決まっていたみたいじゃないですか」
納得がいかない。そう思った。
「この子は神子として彼を……オルフィを助けたんだわ」
ピニアはそんなことを呟いた。
「彼はいったい、何者なの」
「オルフィは、オルフィです。アイーグ村の、荷運びをやっている若者で、私の幼なじみで、優しくて……しっかりしていて……」
言いながらリチェリンは声が震えるのを感じた。
先ほど彼女自身も考えたばかりだった。カナトとリチェリンの間には、オルフィがいる。だが同時に、自分が神子ではないように、オルフィが何か特別な存在だとはとても思えない。
相反するふたつの感覚が彼女を悩ませていた。
「ピニアさん。私は」
リチェリンはもう一度、〈はじまりの湖〉の神や神子、民のことについて教えてほしいと言おうとした。
だが、その前に、姿を現した者があった。
「ピニア!」
その呼び声は大きく、静謐とさえ言えていたこの部屋の雰囲気を乱暴に打ち破った。ピニアのみならずリチェリンまでびくっとする。
「こい! いますぐ支度をするんだ!」
それはこれまで彼女――彼女らがコルシェントから聞いたことのない、焦りに満ちた声だった。
「し、支度?」
ピニアは戸惑った。
「いったい、何の……」
「ここを出る」
「え?」
「この国を出るんだ、急げ!」
やはりピニアは怪訝な顔を見せていた。単純に魔術師の言うことが判らなかったのだ。彼女に刻み込まれた契約は彼女をコルシェントの言葉に従わせるが、意味が判らなくては従いようがない。
「支度、というのは」
「お前もくるんだ。ラシアッドがいい。あの小国には便宜を図ってやった。ウーリナのことは結局巧くいかないだろうが、却ってその方がいい」
ぶつぶつとコルシェントは半ば独り言のように言った。
「いや、駄目だ。妹王女を差し出すことに同意したロズウィンドに、強国ナイリアンと喧嘩をする度胸があるとも思えん。ヴァンディルガだ。西国がいい。エクール湖からは離れるが、何、距離は関係ない。いざとなれば東方と西方からナイリアンを挟むこともできる」
目をぎらぎらとさせてコルシェントは続けた。
「ヴァンディルガなら、ナイリアンの内情を知る私を欲するはずだ。いきなり宮廷魔術師とは言わん、だが必ずもう一度」
「――知られたのね、あなたの悪事が」
リチェリンは気づいた。
「それで慌てて逃げ出そうって訳」
「黙れ、小娘が」
ぎろりとコルシェントは彼女を睨んだ。
「私から逃げられると思うなよ。お前も連れて行く」
「冗談じゃないわ、ヴァンディルガなんて!」
南西部からは近い隣国だが、だからこそ知っている。しばらくは静かにしているものの、数十年前までは南西部とも接するトランドリン国に何かと侵攻していたと言う。物騒な国という印象が強い。
「逆らえばどうなるか、また話してやらねばならんのか?」
「わ、私」
恐怖が蘇る。リチェリンの顔は引きつった。
「私は、そう、この国から出ることはできないわ。そ、その、エクール湖からは離れられない」
「何だと?」
「あの……」
「神子の自覚が出てきたという訳か? それは結構なことだ」
コルシェントはリチェリンの腕を掴んだ。
「なおさら、逃がしはせん。湖神を蘇らせるのだ」




