01 半人半神
神官はなかなかやってこなかった。
リチェリンとピニアは知らないことながら、使用人がコズディム神殿にたどり着いたとき、伝言の受取人たるイゼフは神殿を留守にしていたのだ。
使用人は、しかしできる限りのことをしようと、弔いのための神官が必要だと告げた。話を聞いた神官は当然のことながら、死者が出たのかと問うた。詳細を聞かされていない使用人はそれを否定し、おそらく相談ごとだと思うと言ってしまったのだ。
もっともピニアからの指示は「至急」だ。使用人は急いでほしいと頼んだが、通常は相談者が直接やってくるものだ。
神官は決して「そっちからこい」などとは言わず、思ってもいなかっただろうが、実際に「呼ばれてすぐに出向く」という仕組みができていないことは確かだ。仮にややこしい事例であってもひとりで判断できるだけの知識や経験を持つ神官は、生憎とそのとき手が空いていなかった。
仕方なく使用人はその場で待つことにした。その判断を責めることもできないだろう。
一方で、真新しい衣類は比較的すぐに届けられた。桶に張った水なども用意されたその段になると「そこで見知らぬ少年が死んでいるようだ」というのは使用人たちの間にも判ってきたが、ピニアによく仕えてきた者たちは必要以上に大騒ぎすることなく、主人が話してくれるのを待っていた。
「――アスト・ラムラマス」
リチェリンとピニアは冥界神に捧げる語句を唱えると、濡らした手ぬぐいでそっと少年の血を拭っていった。もうこの頃にはそれはだいぶ固まってしまって、さっと拭き取るという訳にはいかなかったのだが、そのことは彼女らにそれを作業的に行わせる役には立ったと言える。感傷に浸るより、とにかくこの汚れを取ってしまわなくてはと集中させたのだ。
腹部の方はもっと厄介だった。血溜まりはとても拭き取れそうになく、服を普通に脱がせることは困難だった。
そこでピニアは鋏を使い、服を切ってしまうことにした。その「作業」にリチェリンも感情を押し殺し、しばらく黙ったまま手伝って――そして、それを見つけた。
「あ……」
思いがけないものにリチェリンの手はとまり、ピニアも何ごとかと彼女を見た。
「こ、これ……」
声をかすれさせてリチェリンはそれを指した。
「まあ」
ピニアも驚いた。
その背中にあったのは、奇妙な、蛇行する曲線。あざのような、不思議と神秘的な感じのする、紋様。
「エクールの」
ふたりは異口同音に言った。
「ま、まさか」
占い師は驚愕する。
「神子?……カナト君が?」
リチェリンは口を中途半端に開けた。
「でも……コルシェントはリチェリン、あなたが神子だと」
「似たようなあざがあるので、間違われたんです。違うとどれだけ言っても聞いてもらえなくて」
「間違えるなんて」
ピニアは首を振った。
「彼ほどの術師が『似たような』ものを容易に取り違えるとは思わない。彼は確信していたわ」
占い師はもちろん、コルシェントにほんのひとかけらだって好意を抱いていない。だが憎むべき男だからと言ってその能力を低く見ることもなかった。
「すると考えられるのは……神子がふたりいたということ……?」
呟くようにピニアは言った。
「まさか」
今度はリチェリンがそう言った。
「さっきも言いましたように、私は違うんです、本当に」
「……でも」
ピニアは躊躇いがちに口を開いた。
「私はあなたに、何かを感じるわ」
「何ですって?」
「私は〈はじまりの湖〉の畔の村で生まれたエクールの民よ」
改めて告げてピニアはじっとリチェリンを見た。
「彼から神子を探すようにと言われていた。でもできなかった。私は彼に逆らえず、やろうとしたのだけれど、見つけられなかったの。彼は私がエクールの民として何かしら深い禁止をされているために巧くいかないのではと推測していたけれど」
それについては判らないと占い師は首を振った。
「あの、でも」
躊躇いがちにリチェリンは言った。
「あの魔術師は、ピニアさんが私を見つけたと……」
責めるつもりは断じてなく、ただ、どういうことかと思った。
「私ではないわ。本当よ」
言い訳ではないと彼女は首を振って誓いの仕草をした。
「どうして彼があのように言ったのかは判らないわ」
「何か勘違いをしたんでしょうか」
納得できる答えではなかったが、彼女らには材料がなく、そうとでも思うしかなかった。
「あ、すみません。話の腰を折って」
「いいのよ」
ピニアは首を振った。
「神子の話だったわね。そう……あなたを見て、私は何かを感じたの。もうほとんど記憶に残っていない、あの湖の風。懐かしい風景を」
「そんな」
リチェリンは戸惑った。
「きっと、気のせいです。あの男から先に聞いていて、先入観が」
「それが絶対にないとは言えないわ」
冷静に占い師は判断した。
「でも私は星を読む者。ただ『話に聞いていたから』という理由だけで、そうした心象を感じることはないでしょう」
そう言ったピニアは、これまで見せていた弱々しい様子とは異なり、堂々として見えた。リチェリンは反論を躊躇う。
(でも、有り得ない)
(そのはずだわ)
疑いようもなく確信していたことが、しかし誰しもに否定されることによって、奇妙な翳りを見せはじめた。
もしも彼らの言うように、彼女の記憶が間違っているのだとしたら?
有り得ないことへの茫洋とした不安がリチェリンの内に浮かんだ。だが彼女は首を振る。
神子は彼女ではなく、カナトだったのだ。そうとしか思えない。
「そうだ、ピニアさんならご存知ではないのですか。行方不明になった神子というのが男だったか女だったか」
「それは」
畔の村出身の娘は戸惑った顔を見せた。
「判らないの」
「幼くて、覚えていない?」
「そうじゃないわ。必要ないの」
「何ですって?」
意味が判らなくてリチェリンは首をひねった。
「神子というのは、人ではないとされるから」
「えっ?」
「人外だとか魔物だとかいう意味ではないわ。そうね、言うなれば半人半神。だから生まれた神子が男の子であるとか女の子であるとか、そうした話はしないの」
成長すれば自然と判るものの、ピニアが村を去った頃は長老や世話をする者以外神子の性別など知らなかったし、知ろうともしなかった。そういうものだからだ。
「半人……半神」
ますますもって自分のことではないと思える。
「神子は、カナト君だったんです、きっと」
リチェリンは死んだ少年を見つめ、はっとして新しい衣服を手にした。ピニアもうなずき、冷たく動かなくなった手を袖に通す手伝いをする。
「それなら、さっきの守り符のことも説明がつくでしょう?」
リチェリンは同意を得ようとピニアを見たが、占い師は応とも否とも答えなかった。
「黒騎士は……彼らは、神子を探すためにたくさんの子供たちを殺して、最後には目当ての存在だと気づかぬままに」
それは何という皮肉、決してまっすぐにすることのできない〈ドーレンの輪〉のねじれであったことか。
「――ずなのに」
ピニアが小さく、何かを言った。リチェリンは聞き取れず、少し首をかしげた。
「いま、何て?」
「神子のことは必ず湖神が守るはずなのに。こんなことになるなんて」
「湖神……そのことなんですけれど」
そっとリチェリンはピニアの様子を見た。
「『湖神を蘇らせる』というのは? 神子にはどんな力があるんです?」
「湖神エク=ヴーは普段、眠っているの。百年に一度の特別な深い眠りについているとき以外は、エクールの民が必要すれば降臨すると言うわ。神子が呼び起こすと」
「あの男はその話をしていたんだと思います」
こくりとリチェリンはうなずいた。
「私を神子と思い込んで」
違うのだとわざわざ主張するような形になったのは、浮かんだ翳りを振り払うためでもあった。
ピニアはそれに対する明言を避け――少なくともリチェリンに全面的に賛成はしない、ということは判った――湖神エク=ヴーについての説明を続けた。
と言ってもそれはよく聞かれる伝承の類からそれほどかけ離れた話ではなかった。
〈はじまりの民〉が危難に陥るとき、古からの契約に基づいて、エク=ヴーが彼らを救う。それがどんな危難かとか、どのように救うかということは一切判らない。
ただ「古い伝説」「お話」として廃れることがなかったのは、実際に湖にはエク=ヴーがいたこともあれば、しるしを持つ子供、神子も生まれ続けたからでもある。
幼い内に村を離れたピニアはあまり詳しいことを知らず、まさか二十歳を超してから故郷の出来事が関わってこようとは思いも寄らなかったと、彼女は呟くように語った。
「でもこれも縁……定めの鎖が繋いだものなのね」
占い師は魔術師らしく言った。
「この子の背にしるしがあると知ったら彼はどうするかしら。神子がもうひとりいて……リチェリンだけでは湖神を呼び起こせないとしたら」
「ピニアさん」
「仮定よ。あなたは否定するけれど、しるしがあることは事実」
「偶然」という可能性はやはり採ってもらえないようだった。
だが――。
リチェリン自身、本当に偶然とは思えなくなってきた。
自分が神子でないことはアイーグ村の入り口で赤子の彼女を見つけたオルフィの父が証言でも何でもしてくれるだろう。
しかし、何か関わりはあるのかもしれない。




