08 そのような愚かな男に
レヴラール王子がそうした魔術を目にするのは初めてだった。彼は呆然とした顔を見せたもののそれはほんの一瞬にとどまり、すぐさま王子の顔を取り戻した。
「そのほう! シレキ!」
「はい、殿下」
これまでいささか不遜な態度も取ったものの、この場ではシレキは大人しく礼をした。
「お前が何者かは、いまは問うまい。オルフィはコルシェントを追ったのだな?」
「はい。私もすぐに、彼を助けに行く所存です」
言ってシレキは扉の方を見た。
「次なる助っ人にこの場を任せたあとで」
「誰のことだ?」
王子は当然の問いを発した。
「もう、到着しますよ」
彼はそうとだけ答えた。
「ではそれまでに説明してもらおう。簡潔にな」
「可能な限りに。しかし、まず先に」
シレキは心配そうな表情を浮かべた。
「この人を休ませないとならんでしょうな」
「……問題ない」
ジョリスは答えたが、シレキは首を振った。
「せっかく助かった命を意地で落とすなんて馬鹿げてる。いかに〈白光の騎士〉様でも、年長者として俺は言わせてもらいますよ。あんたは限界のはずだ。ほら、そっちに座って下さい」
「いや……」
「座れ、ジョリス。命令だ」
素早くレヴラールが言った。騎士は息を吐き、了承の仕草をした。それにシレキも安堵の息を吐いて、ジョリスを長椅子に連れた。
「生きて、いたのだな」
騎士が腰を下ろすのを見届けると、またレヴラールは言った。
「生きていて、くれたのだな」
「殿下……」
「待った。感動の再会は判りますが、話をさせれば消耗するだけです。この場は俺に説明させて下さい」
シレキは制した。判った、とレヴラールはうなずいた。
「いまとなってはご理解いただけると思いますが、とんでもない茶番でした」
「――茶番だと」
レヴラールは小さく呟いた。
「茶番で、グードは死んだと言うのか」
「それは」
男はしまったというような顔をした。生じた犠牲は王子にとって大きなものだ。たとえこのあと、全てが順調に都合よく進んだところで、失われた命は戻らない。
「殿下」
かすれた声がする。レヴラールははっとした。
「すまん。感情は抑える」
「……べき、ときは」
苦しげな吐息。
「発露させるべきときは、必ず、やってきます故」
それだけ言うのにも、やはりジョリスは精一杯といった様子だった。しかめ面でシレキが繰り返しとめる。
「ハサレックはジョリス様を殺害したつもりでいた。ですが大導師と呼ばれるラバンネル術師という人物がいましてね」
ジョリスが「報告をしなければ」との義務感から話をはじめないように、シレキはさっと語り出した。
「彼は基本的に隠遁してるんですが、異常事態を感じ取って騎士様を助けるに至りました」
もっとも、即死していてもおかしくない、いや、それが当然のような状態だった。魔術を使って噴き出る血を止め、痛みを軽減したところで、いつ息を引き取ってもおかしくなかったのだと言う。
だが神の助けか騎士の生命力か、冥界の導き手は少しずつジョリスから離れた。しかし長らく眠ったまま、たまに目を覚ましても朦朧としていた。
「意識を取り戻した」と言える状態になったのはわずか五日前、立ち上がることができたのが一日前、そんな状態で魔術の〈移動〉などを受けたら、普通の人間はまた昏睡状態に陥りかねない。
「それをこの騎士様ときたら、ほとんど俺たちの手も借りずにひとりで立って、張りつめた空気のなかで話して、告発まで」
大したものだとシレキは息を吐く。
「オルフィがあれだけ尊敬するのもうなずけるってもんですよ」
「為すべきことを……したまで」
「黙って」
シレキは厳しく、ジョリスを制した。
「俺にはいま、さっきまでみたいな力はないんです。籠手はオルフィと一緒に行っちまった。俺よりあいつに必要なもんだからな、仕方ないと言うか、当然と言おうかね」
「――アバスターの籠手。いや、この場合はラバンネルの籠手と言うべきなのか」
レヴラールが呟いた。
「その通りです」
シレキはうなずいた。
「大導師ラバンネルがその全盛期に力を込めた品。魔術師ならのどから手が出るほどほしいでしょうな。野望があるにせよ、純粋な好奇心にせよ」
肩をすくめてシレキは言った。
「だがコルシェントは籠手が目当てって訳でもなかったようだ。エクールの神子……湖神。企んでるのはコルシェントじゃなかっただろうが」
「何の話だ」
「正直、俺にはまだよく判らないところがあります。ただ言えるのは、悪魔と結託していたのはハサレックであり、コルシェントはハサレックを使っているつもりで実は使われていたということ」
自らの考えをまとめるように言ってから、彼はふと顔を上げた。
「ああ、お着きだ」
「待たせたか」
そのときやってきた声と姿は、レヴラールにもよく覚えのあるものだった。
「キンロップ」
「祭司長殿」
「殿下、失礼いたします」
カーザナ・キンロップは第一王子に礼をしてコルシェントが開け放したままでいた扉から混沌とした場に足を踏み入れた。
「ようやく魔術で縛られた〈場〉が解けたようですな」
「あ、それが残ってたせいか」
しまったとシレキは舌打ちをした。
第一王子の部屋での騒ぎに誰も飛んでこないはずがない。彼はコルシェントの魔力を一時的に封じたが、既に作られていた〈場〉は残っていた。
「異常を外部に知らせようとなさった殿下の選択は誤りではありませんでしたが、彼は慎重だった。この部屋に近づこうとすると、途中で用件を忘れてしまう術が編まれていたようです」
すわ緊急事態と衛兵や使用人はもとより、騎士だって連絡を受けて走ってきそうなものだった。だがそれは果たされず、これからようやく、改めて、部屋の窓が割れている異常事態が騒ぎになるだろう。
「キンロップ」
レヴラールは、しかしその話をほとんど聞いていなかった。
「よいところにきた、グードを」
彼は足元の護衛剣士に視線を落とし、そこで言葉を切った。
「――いや」
「彼を救え」などというのは、愚にもつかない命令だ。レヴラールはそのことに気づいた。言葉をとめざるを得なかった。
騎士になれなかった――ならなかった男は、とうにその鼓動をとめている。
「ジョリスに、癒しの手を」
「何と」
死んだはずの男の姿にキンロップは目を見開いたが、騒いだり余計なことを問うたりすることはなく、ただうなずいた。
「座ったままで……失礼を」
「黙れオードナー」
キンロップもまたぴしゃりと言った。
「事情は判らんが推測はつく。死の淵を抜けたばかりの身体で無茶をしたのであろう。そのような愚かな男に、礼儀を尽くせなどと愚かなことは言わん」
その声には紛れもない安堵が籠もっていた。
「祭司長、お待ちを」
もうひとつの声がした。
「誰だ」
と王子が問うたのは、キンロップのあとから入ってきたもうひとりに対してだった。
「お初にお目にかかる、王子殿下」
その人物は言った。
「コズディム神官イゼフと申す者」
白髪の神官は深く礼をした。
「コズディムだと」
王子は繰り返した。
「ならばグードを……彼を送ってやってくれ」
「グード殿」
キンロップは死んだ剣士を認め、きゅっと眉をひそめた。
「いったい」
「『黒騎士』と戦った。俺を守ろうと」
「黒騎士!」
険しい顔つきでキンロップは叫んだ。
「現れたのですか!『もうひとり』など……忌憚なく申し上げるなら、戯言かと思っておりましたが」
「戯言でしたね」
シレキは答えた。
「ですがその説明の前に。イゼフ神官? 何か言おうとされましたね」
「ああ」
イゼフはうなずいた。
「ジョリス殿の身体に、魔術の痕跡が見える。生命を留めるために、ありとあらゆる術が使われた。その状態の彼に新たに神術を施すのは、意味がないどころか危険を招きかねない」
「む」
キンロップはジョリスに差し出しかけていた手を引いた。
「そうか」
「いまは、遅々たるものだろうが、自然の治癒に任せるのがいちばんかと」
「貴殿がそう言うのであれば、それがよいだろう」
ナイリアンの神官たちの最高位に立つ男は、一神官の言葉にうなずいた。




