07 忘れるな
「そうだったね」
姿のない声が言った。
「アバスターと、そしてラバンネル。あのふたりは実に大したものだったよ。人間にしておくのは惜しいほど」
くすくすとニイロドスは笑った。
「戦うのはまたの機会にしようや、〈青銀〉の」
悪魔の戯言を無視して、ヴィレドーンは言った。
「俺に争う気はない、と言ってるんだ。少なくともニイロドスを楽しませるためだけにはな」
「俺は楽しめる、と言ってるんだが」
ハサレックは肩をすくめた。
「剣を手にしておきながら『戦わない』もないんじゃないか、〈漆黒〉の?」
〈青銀の騎士〉は片眉を上げ、剣を持たない左手で手招くようにした。
「さあ、こいよ」
「ジョリス・オードナーの代役はご免だ」
彼は肩をすくめた。
「或いは、ラ・ザインの」
公正なる〈裁き手〉ラ・ザインの名を耳にするとハサレックは片眉を上げた。
「……俺が裁かれたがっている、とでも?」
「その通りとしか見えんがね」
「ジョリスが黒騎士などに負けるはずがない」という、それは子供たちの憧れに似ながら、しかし異なるものだ。何も知らぬ子供がお話の英雄のようにジョリスを慕うのではない、現実に知り、友であった男が羨望と嫉妬を影に言う。
堕ちた自身を罰してほしくて。
気高き友になら殺されてもいいと――いや、いっそ殺してほしいという気持ちも、心のどこかにはあったのではないか。
このときハサレックは、そこにいるジョリスを見なかった。
彼はまるで――かつての――友がそこにいないかのように振る舞った。
ジョリスも黙っていた。彼の体力は限界に近かったが、何かしら言葉を発することは可能だったろう。だが、黙っていた。ハサレックがいま彼を拒絶していることを知っていたからかもしれない。
「俺は」
ヴィレドーンは続けた。
「俺は友に、ファローに殺される訳にはいかなかった。だがもし、彼が俺を追う立場になるまで生きていたとしたら、俺は彼に裁かれたいと思っただろう。向こうにはいい迷惑だろうがな」
たとえヴィレドーンが私利私欲にまみれた極悪人であったとしても、ファローは斬ることを迷っただろう。だが私情で見逃すこともできぬと、友と自身の心を斬ることを選んだろう。ファローに、ジョリスに裁かれたいと言うのは彼らの甘えでしかない。
ヴィレドーンはそれを理解した。ハサレックは、まだだ。
「だがそんな話は、いまはよしておこう。お前が大人しくなるんなら、俺はコルシェントを追うことができる」
「大人しく?」
ハサレックは口の端を上げた。
「どういう意味で言っている?」
「戦う意欲をなくしたろう。俺の言葉のせいかどうかはともかく、それくらいは判る」
淡々と彼は返した。
「去就は自分で決めるんだな。ただもう一度言っておく。気をつけろと」
「は。親切な気遣いには礼でも言っておくとしよう」
だが、とハサレックは首を振った。
「コルシェントの行き先は判るのか?」
「十中八九、あいつは占い師のところだろう」
「ふん、有り得るな」
ハサレックは鼻を鳴らした。
「しかし、お前をそのまま逃がすのも惜しい」
「逃がす? 逃げるべきはお前じゃないのか?」
ヴィレドーンはもっともなことと返した。
「しかし、これだけは言っておこう。俺は逃げやしない。――ジョリス・オードナーとファロー・サンディットの名にかけても」
それは彼だけが言える台詞だった。
この世でただひとり、これらふたりの〈白光の騎士〉を直接に見知り、深い敬愛を抱く者。
ハサレックは虚を突かれたように黙り、応とも否とも返さなかった。
名を呼ばれたジョリスは――三十年前の騎士の名と並べられたことをどう思ったとしても――やはり何も言わなかった。
「……確かに、やる気は削がれた」
少しの沈黙の後にハサレックは呟いた。
「潮時だな。俺も立ち去るとしよう」
「待て!」
レヴラールが声を張る。
「ジョリス。それにオルフィ、そしてシレキと言ったか。ハサレック・ディアこそが子供たちとグードを殺害した『黒騎士』。そのことに間違いは、ないのだな」
それはもはや問いかけではなく確認に過ぎなかった。
「下らない」
だがハサレックは苦笑いなどを浮かべた。
「俺じゃない」
「この期に及んで、まだ言うのか」
呆れたようにシレキは口を開けた。
「ジョリスが嘘をついている、と?」
レヴラールが顔を険しくする。
「嘘とは言いますまい。だが誤解、或いは勘違いだ。そうだろう、我が友?」
にやりと元〈青銀の騎士〉は笑った。
「お前は兜の下の顔を見たのか? 見ていないだろう。だから奇妙な、有り得ない勘違いをしているんだ」
とても真摯な台詞とは聞こえなかった。こんなふうに言いながら、本気で騙そうとするつもりなどかけらもないような。
「言うねえ、あんたも」
シレキは呆れ顔をした。
「面の皮が厚いってのかね」
「――もう、やめろ。ハサレック」
かすかな声。
「やめてくれ」
のどの奥から絞り出される声は、まるで懇願しているかのようだった。いや、事実、そうだったのかもしれない。
もしハサレックが「豹変した」と言えるような言動を取ったり、怖ろしい――悪魔のような――形相でもしていれば、彼らの感情はまた違っただろう。
だが〈青銀の騎士〉として〈白光の騎士〉の隣にいた男は、以前と変わらぬ、少し皮肉っぽい笑みで、まるで気軽な冗談でも言っている様子で。
「やめて、くれ」
「……俺は」
ハサレックは笑みを消し、何か言いかけた。だがきゅっと口をつぐみ、気を取り直すようにまた口角を上げた。
「いずれまた戦おうじゃないか、ジョリス。お前が回復したら。今度は紛れもない、敵同士として。『お前が驚いた隙を突いた』なんて、次は誰にも言わせないからな」
「今度また飯を食いに行こう」とでも言うような様子。
「ニイロドス」
ぱちんとハサレックは指を鳴らした。
「少々予定とは違ったが、目的は充分果たせただろう。俺はもう行く」
「ま、待て」
「これだけは申し上げておきましょう、王子殿下、そして親愛なるジョリス。俺がナイリアンの騎士になったのは実力だし、誓いも本気で立てた。半年前に子供を守って死にかけたのも事実だ」
軽く片手を上げ、それこそ誓うようにしながらハサレックは言った。
「死に瀕すると、考えが変わる。極悪人がころりと改心しちまうこともあるらしい。俺は、これまで自分は何のために何を耐えてきたんだろうと馬鹿らしくなった。生きてる内にやっておけることを……やりたいことを思うままにやっておくのがいい、とね」
「そこを悪魔につけ込まれたか」
ヴィレドーンはうなった。
「お前の望みは『裏切りの騎士』と呼ばれることか」
「特にそう呼ばれたい訳じゃないが、呼ばれてもかまわない。ただ、ヴィレドーンの名が残らなかったのと違い、ハサレックの名はナイリアン中に残してやろう」
〈青銀の騎士〉は――いや、騎士だった男は両手を高く差し上げた。はっとシレキは警戒した。
だがハサレックからにせよ、姿の見えない悪魔からにせよ、攻撃術の類が放たれることはなかった。
その代わり一瞬の黒が、闇がハサレック・ディアの全身を覆ったかと思うと、彼はそこからかき消えていた。
「……魔術じゃない。魔力とあまりに違う。ああ、まじで、『禍々しい』ってのはこういうのを言うんだ。あああ、肌に粟が」
ぶつぶつとシレキは言い、厄除けの仕草をした。
「――ハサレック」
苦しげにジョリスは呟き、がくりと膝を折った。今度はシレキがそれを支える。
「すまない」
「大したことじゃありませんや。いえ、大したもんなのは騎士様ですよ、全く。これまで立っていられたのが不思議なくらいです、本当に」
心底感心する様子でシレキは肩をすくめた。
「シレキ」
そこでヴィレドーンが声を出した。シレキは片眉を上げた。
「ピニアの館は判るか? 俺をそこへ飛ばせるか」
「……ああ、可能だ」
シレキは「彼」の様子をどう思うにせよ、余計な口を挟まず、ただうなずいた。
「頼む。それからあんたは、残ってほしい。『黒騎士』が王子を狙ったのは見せかけにすぎんと判っちゃいるが、一応な」
ハサレックからレヴラールを守ってくれと、彼はそうしたことを言った。判ったとシレキは答えた。
「だが……オルフィ」
シレキはそっと呼んだ。
「カナトのことは、すまなかったな」
ぽつりとシレキが呟いたので、オルフィは驚いた。
「何だって?」
「俺がついていてやれば、或いは……いや、いまはよすか」
「おっさん……?」
「いいか、カナトが防ごうとしたことを忘れるなよ」
それから口早にシレキは続けた。
「……え?」
「お前は南西部で育った荷運び屋だってことさ」
にやりと笑って男は言った。
「そ、そりゃ」
判ってるけど、とオルフィはもごもごと呟いた。
「さて、追うのはいいが、施術した俺から離れたことであいつはいくらか魔力を取り戻してる。いまはまだ、言うなれば目を回しているような状態だろうが、時間が経てば元通りだ」
「判った」
真剣にオルフィはうなずいた。
「よしいいか、目をつぶれ。息を整えろ」
「お、おう」
うなずいてからオルフィはジョリスを目にし――消えてしまわないかと心配するように凝視してから、照れたような笑いを浮かべた。
騎士はどこまで事情を知るのか、じっとその視線を受け止め、小さくひとつうなずいた。オルフィもまたうなずき、言われるままに目を閉ざした。
シレキが呪を唱える。魔術が発動する。何か光ったり、音がしたりするようなこともないまま、オルフィはその場から文字通りに消えた。




